四季 夏 森 博嗣 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)真賀田四季《まがたしき》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)阪元|美絵《みえ》 ------------------------------------------------------- 〈帯〉  孤島の研究所。  13歳の天才少女が起こした事件。  真賀田四季、誘拐される!! [#改ページ] 〈カバー〉  優美なる佇まい、森ミステリィ  私がしようとしていることは、  私が決めたこと。  私は、しようと思ったことを、  しなかったことは一度もないわ  米国から帰国した真賀田四季《まがたしき》は13歳。すでに、人類の中で最も神に近い、真の天才として世に知られていた。叔父、新藤清二《しんどうせいじ》と行った閉園間近の遊園地で、四季は何者かに誘拐される。瀬在丸紅子《せざいまるべにこ》との再会。妃真加《ひまか》島の研究所で何が起こったのか?『すべてがFになる』で触れられなかった真相が今、明らかになる!  取り替えられる夏 森博嗣(もり・ひろし) 1957年愛知県生まれ。 現在、国立某大学の工学部助教授。 [#改ページ]  四季 夏 [#地から1字上げ]森 博嗣 [#地から1字上げ]講談社ノベルス [#地から1字上げ]KODANSHA NOVELS [#改ページ]  目次  プロローグ  第1章 欲望と苦心その攪乱  第2章 隷属と支配の活路  第3章 祈りと腐心は似ている  第4章 希望は懐かしさの欠片  第5章 冷徹と敏捷その格調  エピローグ [#改ページ] [#中央揃え]THE FOUR SEASONS [#中央揃え]RED SUMMER [#中央揃え]by [#中央揃え]MORI Hiroshi [#中央揃え]2003 [#改ページ]  思うに、両人が、そういう気持になるというのも、じつは、僕たち人間の太古本来の姿が、そこにあるからなのだ。昔の僕たちが、完全なる全体をなしていたからなのだ。そして、その完全なる全体への欲求、その追求にこそ、愛という名がさずけられているのです。 [#地付き](SYMPOSION/Platon) [#改ページ] プロローグ [#ここから5字下げ] ——まことにこの神、大地の上を歩まぬはもとより、さらに、人の頭《こうべ》の上をも歩まず。なぜなら、人の頭《こうべ》とて、さほど柔らかきものとは言えませぬから。むしろこの神、万物のうちでも、かぎりなく柔らかきものの上を歩み、そこに住まう——と。かぎりなく柔らかきもの、というのも、ほかではありません。この神は、神々や人間たちの、心情と魂とに住居を定めるからなのです。 [#ここで字下げ終わり]  太陽の意志は穏やかに鎮《しず》まろうとしている。けれど、白い砂地にはまだ充分な思慕が残留していた。靴の底を通してさえも、それが伝わるほど焼けていたのだろう。それを手に掬《すく》って、暖かさの感触を確かめたい、という不自然な衝動が彼の中で鈴のように転がっていた。  樹木の枝がオーバハングする浜辺の奥。  舗装されていない道路が石垣の上に。  新藤清二《しんどうせいじ》は、振り向くのが恐かった。彼女と二人きりになったときには、いつもこの仄《ほの》かな恐怖感につき纏《まと》われる。それはずいぶん以前からのことで、彼女がまだ小さかった頃から……、つまり、彼女が特別だと理解したときから、生じていたものだろう。恐怖は、大きくなってはいないものの、確かに密度を増し、確固たる形、様相を呈《てい》し始めている。そして、その恐怖は実のところ、もっと別の感情の裏返しにちがいない、という憶測があった。彼の自己分析は、いつもこのように憶測以上には踏み込まない。その感情がどんなものかを、彼は薄々は知っている。ただ、自分に対して知らない振りをしているのではないか。それは、極めて落ち着かない状況だ。曖昧《あいまい》な状態のまま続いている。これからも、ずっと続くのだろう、と彼は感じていた。  生きている限りは……。  このまま。  呼吸を取り戻すように膝《ひざ》を折り、屈《かが》んで砂を掬った。思ったほどそれは熱くはない。  乾いた昔の思い出のような一瞬の感触だった。  手を払い、立ち上がり、再び両手をポケットに戻す。 「叔父様」後ろから呼びかけられた。  振り向く理由を与えられ、彼は少しほっとする。 「砂の密度は、石や岩の密度よりも統計的に小さいのです」四季《しき》は話した。彼女は石垣の上に腰掛けている。「不思議ではありませんか? 岩が砕けて石になり、石が砕けて砂になる。同じ物質でできているはずなのに、密度が違うなんて」 「僕には専門外だよ」新藤は答える。  四季の白い脚を見た。  白いスカート。  膝、脛《すね》、そしてサンダル。  それから、懺悔《ざんげ》をするような気分で一度空を見上げる。  雲はない。  僅《わず》かに風。  汗をかいている自分の躰《からだ》。  彼女の顔を再び見る。視線をこちらへ向けて、じっと四季は彼を見つめていた。笑っているようにも、怒っているようにも見えた。 「何か、理由があるのかい?」新藤はきいた。その理由を特に知りたくはなかったけれど、何か言葉を発せずにはいられなかった。 「叔父様には興味がないようだわ」 「いや、ごめん……。そんなことはないよ」 「何か他のことを考えていらっしゃる。病院のこと? それとも、奥様のこと? あるいは、お父様とのことかしら? 何かの目的があって、こちらへいらっしゃったのでしょう? トラブルでなければ良いのですけれど」 「トラブルなんて、とんでもない」 「そう?」四季は首を傾《かし》げた。「奥様が一緒にいらっしゃらなかった理由を、きいても良い?」 「理由なんてないよ。彼女は、その、今ちょっと忙しくてね、いろいろと、その……」 「私はとても嬉しい」四季は微笑んだ。「こうして、叔父様と二人だけなんて、とても久しぶりですもの」 「そう、久しぶりだね」新藤は頷《うなず》き、彼女から視線を逸《そ》らせる。「君は、立派になった」アメリカから戻った四季は、まだ十三歳である。しかし、一見した印象は既に大人の女性に見えた。ここに来るまで、こうして彼女に会うまえは、新藤の中にあった彼女の印象はまだ五年まえの少女のものだった。それが今、すっかり消えている。目の前に存在するもの、それが絶対的、そして圧倒的だった。  彼の姪は天才である。  天才的ではない。ただの天才でもない。真の天才だ。それがどんなものか、ようやく彼も理解しつつある。否、理解などできないことが判明した、といった方が近いだろう。  四季の存在によって、周囲は否応なく影響を受けつつある。彼女の両親は既に完全にその渦《うず》の中に巻き込まれていた。一体化したといっても良い。また、新藤自身も、そして新藤の家族も、その渦に吸い寄せられている。  それ以前に、より個人的な吸引力を彼は感じていた。彼女がもっと幼かったときに、それに気がついた。自分の人生が、この少女によって支配される、翻弄《ほんろう》される、あるいは、支配されたい、翻弄されたい、といった予感だった。  それが間違っていなかったと確信できる。  彼女は、それほどの存在なのだ。  人類にとって掛け替えのない才能。歴史に残る才能。つまり、人類の到達点を左右する才能だ、と大勢が気づき始めていた。  しかし、新藤は彼女の比較的身近にいて、それら社会の認識がもしかして不足しているのではないか、という疑いを持っていた。彼女は、本当にすべてを我々に見せているだろうか。彼女が我々に見せる一面は、いったい彼女の能力のどれくらいの部分なのか。  ときどき、彼女の本性が悪魔のように邪悪で、見えるもの、表面に顕《あらわ》れるものはすべて、我々を騙《だま》すために彼女が作り上げた仮面ではないか、と思えるのだった。人々全員を騙そうとしているのではないか。  まるで、神のように。  そういった不安を誘発させる輝きが、四季の瞳の中には確かにあった。美しく魅力的な光だ。だからこそ、恐い、と感じるのである。  けれども一方では、すべてを彼女に委《ゆだ》ね、すなわち、騙されるならば、それで良い、完全に彼女に隷属することにもまた、強い誘惑を感じずにはいられなかった。それが美徳とさえ思えるのだ。  白い彼女の皮膚の滑《なめ》らかさが、そうした一切の幻覚を誘発している。新藤はそう分析した。  触れたいと想い、手が僅かに動いたことが数度。  その一瞬の躊躇《ちゅうちょ》を、彼女は僅かな微笑みで彼に返す。知っているのだ。  この少女は、何もかもを知っているのだ。  人の心の奥底までも、見通している。  自分の躰は、既に見えない剣《つるぎ》によって貫き通されているのではないか、と彼は考えた。それほどに痛々しい自分が、わかる。  どうしたら良いか、を考えているのではない。  どうしようもない、と考えているのでもない。  何も悩みはない。  むしろ、前途は洋々としているといえる。それなのに、躰に圧縮力を感じるのだ。周囲から圧力を受けているように、全身が萎縮《いしゅく》している感覚、それが絶え間なく継続していた。  彼女のことを想うだけで。  彼女の姿態を想像するだけで。  そして、こうして彼女と会うことによって、確かに、ここに根元がある、力の中心がある、という原因を確認するのである。  四季は石垣から身軽に飛び降りた。  砂地を歩いて、こちらへ来る。  新藤は唾《つば》を飲み込んだ。  何もできない。  彼女は新藤の前で弾むように立ち止まり、彼の片手を掴《つか》んだ。  その手を持ち上げ、両手で包む。 「ねえ、また遊園地へ行きたいわ」 「ああ、うん、そうだね」彼は頷く。顔がひきつっているのでは、と疑った。「しかし、忙しいんじゃないのかい?」 「そう……」彼女は頷く。口を少しとがらせ、不満な表情。彼女のこういった顔を新藤は初めて見た。「でも、たぶん、なんとかなります。お父様には私からお願いしてみるわ。叔父様のご都合はいかが?」 「兄貴の許可が下りるのなら、もちろん、僕の方は、いつでもかまわないよ」 「明日でも?」 「ああ、君のためなら、他の仕事はどれもキャンセルできる」  四季は嬉しそうに微笑んだ。  船が近づいてくる。波止場の方へ向かっているようだ。しばらく眺めているうちに、岬の蔭に隠れて見えなくなった。  彼の片手はまだ、解放されていない。  すべての神経がそこに集中しているのに、彼は海を見ている。  船の運転ができたら良いな、と考えた。子供の頃から、乗りものが好きだった。たとえば、車の運転が楽しい。もっといろいろな乗りものを運転してみたかった。そんなことを無理に考えている。 「飛行機が、面白いと思うわ」四季が言った。 「そう……」と頷いてから、彼は小さく震える。  考えていることが伝わってしまう。こういったことが、彼女の場合にはごく普通にあった。これに慣れることは、おそらくできないだろう、常人では無理だ、と彼は思う。  この妃真加島《ひまかじま》へは、午前中にヘリコプタでやってきた。四季と一緒だった。そのときに、新藤は操縦席を覗き込み、パイロットに何度か話しかけたのだ。四季はそれを横で見ていて、こう言った。 「叔父様、ライセンスをお取りになったら?」 「うん、そうだね。子供のときには、絶対にパイロットになろうと思っていたんだよ」 「今は?」 「もう、歳だからなあ」  そんな会話があった。だから、船を見たときの彼の表情だけで、思考をトレースしたのだ。  遊園地か……。  新藤は考える。  どうして、そんな場所へ行きたいのか。  彼女は何を望んでいるのだろう。  好意には素直に応える、という単純な問題として扱って良いものか。  何故、自分の右手は、彼女の両手に包まれているのだろう。  振《ふ》り解《ほど》く理由は、しかし見つからない。  ただ、少しずつ、  とても少しずつ、  斜面を転がっている、ということはわかった。  ポテンシャルは下がっている。  低いところへ、墜《お》ちていく。  そこは地獄か……。  なんとなく、可笑《おか》しくなった。きっと考え過ぎている自分が滑稽《こっけい》なのだ。この歳頃の少女が、こういった仕草《しぐさ》をすることは、珍しいことではない、とも思える。唯一の問題は、その少女の頭脳、その少女の能力、そして、その少女の美しさにある。  それだけのことだ、と彼は自分を説得しようとした。  何を恐れている?  いったい何を? [#改ページ] 第1章 欲望と苦心その攪乱 [#ここから5字下げ] 「とすると、その人にしてもその他誰にせよ、欲求にかられているかぎりの人びとは、皆自分の手もとにないもの、また身に備わっていないものを欲求していることになる。したがって、欲求や愛慕の対象は、当人が持たざるもの、その人の現状でないもの、身に欠いているもの——まずまずそういったものが、対象だということになるね?」 [#ここで字下げ終わり]      1  船でやってきたのは、県の土木課の職員が二人、それに建築・土木関係の大学の教官が三人だった。島で始まっている建設工事を見学にきたらしい。  工事現場の若い職員が、浜辺にいた新藤と四季を呼びにきた。 「どうして、私が会わなければならないの?」彼女が尋ねる。 「いえ、あの、それは、私にはわかりません。単に、その、お連れするように、と言われただけですので……」  歩きながら、その青年は答えた。ヘルメットを被《かぶ》っている。この暑さの中、長袖の作業服の襟元《えりもと》が汗で濡れていた。  坂道を上っていくと、切り開かれたばかりの広大なスペースが見えてくる。ここまでの工事に既に一年が費やされていた。左手の奥には、仮設のヘリポートがあって、六人乗りのジェットヘリの白いボディが見えた。その手前に、二階建ての建物が二棟。それらが工事事務所と作業員の詰所である。  三人は、土の上に敷かれた鉄板の上を歩いて、事務所へ向かう。右手には、クレーン車が三機、大型のパワーショベルが二機、そして、十数人の作業員が働いていた。小型のトラックがちょうど入ってきたところだった。  土地の造成はほぼ終了して、建物の基礎工事が始まっている段階、と新藤は説明を受けた。ここまでできれば、もうすぐです、という言葉も聞かれたが、まだ建物の形は何もない。まだまだかかりそうに彼には思えた。  現地を見るのはこれが二度目だったが、それにしても、こんな大規模な施設を造ることになろうとは……、というのが新藤の素直な感想である。もとより、今回の真賀田《まがた》家の投資に対しても、彼は懐疑的な立場だった。真賀田家の資産、その将来を左右する、否、完全に飲み込んでしまうオーダである。彼自身は、新藤家の養子になり、新藤病院を受け継ぐ身であったけれど、こうして、動き出したプロジェクトを目《ま》の当たりにすると、やはり不安は拭《ぬぐ》えない。四季という稀有《けう》の才能に、すべてを賭けようとしている。それはわかる。しかし、こんな物質的な投資が果たして必要だろうか。  兄にその意見をぶつけたことは幾度かあった。そのたびに返ってくる言葉は、「これは、四季が望んだことなんだ」というものだった。  そう言われると、反論できない。既に、十三歳の少女の意志は、圧倒的な支配力を持っているのだ。それは、絶対的なものであり、神聖化されているといっても過言ではなかった。  工事事務所はプレハブの建物で、壁も床も、そして階段も剛性が低く、歩くと変形しているような錯覚があった。  案内役の青年が、二階の会議室のドアを開けて、四季と新藤を中へ通した。折り畳みテーブルが中央に並べられ、窓際に四季の父親、真賀田|左千朗《さちろう》教授の顔がある。その反対側に座っていた五人が、四季を見て一斉に立ち上がった。 「名刺はいりません」四季は片手を広げて微笑んだ。「どうか、お話をお続けになって下さい」  真賀田教授の隣の椅子を引き、彼女は腰掛ける。新藤はその横に座った。戸口に立っていた青年は頭を下げて、ドアを閉める。 「いや、別に、これといって重要な打ち合わせをしていたわけではないよ。もっぱら、君の噂をしていたところだ」 「何故、このような場所に、このような建物が必要なのか」四季は姿勢良く座り、滑らかな口調で話した。「生産されるものは、単なる電気信号です。物体ではありません。それは、今だって作り出せる、場所はどこでも作ることができるはず。その疑問をお持ちですね?」  右にいる二人は、作業服の胸にあるマークから、県の職員だとわかる。左の三人は私服で、いずれも半袖のシャツにネクタイ。年齢は四十代、五十代、六十代。五人ともメガネをかけていた。真ん中にいた一番歳上の男が口をきいた。 「いや、そんな、まったくそんなことはありません」彼は苦笑した。オールバックの髪はほとんど白い。「それを言ったら、どんな建築物も大した存在理由などなくなってしまいます」 「器《うつわ》とは元来そういうもの、とお考えですか?」四季は言う。 「あ、いや、そこまで割り切ってはおりませんが」彼は左横にいる仲間の顔を見た。彼の部下なのだろう、その男が一番若い。 「あの、図面を拝見したところ」その彼が発言した。「窓がありませんね。居住環境として、非常に挑戦的なデザインかと思われますが……」 「ああ、それは、その」右に座っていた県の二人のうち年輩者の方が口を挟んだ。「申請時にも、かなり議論になりまして……、基準法にはもちろん準拠していない、特別な理由、そして生じる弊害に対する対処などが、当然必要になりますので……」 「どれだけ、それで書類を書かされたことか」真賀田教授が笑いながら言った。 「そもそも、しかし、そうまでして、こうしなければならなかった本当のところは、何だったのでしょうか?」若い学者が尋ねる。「その、博士が……」彼は四季の方へ片手を向ける。真賀田博士が二人いるためだ。「エスキス段階で、決定されたと伺いましたが」 「私が決めました」四季は頷いた。「何故、窓が必要ですか?」 「環境・設備的にも、また、防災的にも、各種の機能、用途があります。もちろん、それらは別の方法で置き換えることができるとは思います。しかし、その、こういう考えこそ俗っぽいものだとは感じますが、人間はやはり、外部へ向かって拘束のない自由を享受《きょうじゅ》したいという欲求を持っているのではないか、と考えますが」 「外部とは何ですか?」四季は尋ねた。 「外部ですか……、いや、外部は、つまり、外側のことで、建築外、周囲の社会、そして自然のことだと思いますが」 「そういった概念を人が感じるとき、それは電波やケーブルを伝わってくる信号と実体は同じものです。では、外部はアンテナやケーブルの中にありますか? それでしたら、通信ケーブルという窓が開いていれば充分では?」 「しかし、今の社会は、今の人間は、まだそこまでは……」 「そう、そこまでは洗練されていません。形式的には、あと数十年かかるでしょう。しかし、それが元来の姿だということです。人の躰は、外側で周囲と接していますが、人は、頭脳によって外部を認識しています。これはすなわち、頭脳の中に、社会や自然というすべての概念が取り込まれていることに等しいのです。そうなれば、結局、その人間の外部は、脳の中にこそ存在するのではありませんか? それが外側なのでは?」 「ああ、そういえば、胃袋の中というのも、トポロジィ的には人間の外側だ」真賀田教授が話した。「まあまあ、そういった議論を、今頃ここでしてもしかたがない。もう図面のとおり造るしかないのだからね」 「議論は、無駄ではありません」四季は微笑んだ。彼女は、対面の若い学者を見て、首を僅かに傾げる。「疑問は解消されましたでしょうか?」 「はい、ええ……」彼は頷き、頭を下げる。「恐縮です」 「では、一度、工事現場をご案内しましょう」真賀田教授は言った。「地下へ下りられるようになりました。かなり形になっている箇所もあります」  四季と新藤以外の一同が立ち上がる。 「そうそう、忘れていた……」真賀田教授は、片手を新藤の方へ差し出した。「こちら、実は、私の弟でね、新藤という」 「どうも、はじめまして」新藤は立ち上がり、テーブルに両手をついて頭を下げた。「部外者ですが」 「彼は医者なんだ」真賀田教授はにこやかに言う。「けっこう大きな病院の院長に収まっているんだが、この研究所ができたら、是非とも、こちらへ来てもらいたいとお願いしているんだがね……」 「ちょっと、なかなかそういうわけにも……」新藤は苦笑した。      2  ヘリコプタで島を離れ、空港に隣接するホテルに四季が戻ったのは夕方のことだった。父も叔父も、もちろん一緒で、二時間後に三人でディナの予定である。  空港からホテルまで、彼女にはボディガードが一人付き添っていた。彼女は帽子とサングラスで顔を隠していたが、幸い、ここへ来ていることはマスコミには漏れていないようだった。ホテルの部屋のドアを、ボディガードが開けてくれた。顔は知っているが、名前を知らない男だ。 「各務《かがみ》が、五分後に電話を差し上げます」男は小声で囁《ささや》いた。  部屋の中に入り、四季はようやく一人になった。すぐにベッドに横になり、目を瞑《つむ》る。躰を移動させることは、彼女には重労働に属する。楽しいと思うことのほとんどは重労働だ。  しばらく集中して仕事をした。躰はその間、眠っていた。きっかり五分が経過したと思ったとき、サイドテーブルの電話が鳴った。眠っていた躰を起こし、左手で受話器を取る。 「各務でございます」聞き慣れた声が聞こえた。 「近く?」四季はきいた。 「はい、すぐ近くに」 「部屋へ来て」 「そのつもりでおりました。では、すぐにそちらへ」  四季はベッドから起きあがって、窓際の椅子まで移動した。部屋は空調がよく効いている。カーテン越しに、夕暮れの黄色い光が入る。  深呼吸をした。叔父のことを考えている一部を切り離す。今までの五分間に計算をしていた大半は、既に眠っていた。  チャイムが鳴る。  彼女は立ち上がって、ドアまで歩く。途中で軽い目眩《めまい》を感じたが、これはよくあることだった。  ドアの外で各務|亜樹良《あきら》が頭を下げる。通路には、もう一人、さきほどの男が立っていた。  各務を部屋に入れてドアを閉める。 「いかがでしたか? 妃真加島は」歩きながら各務がきいた。  四季はその質問には答えず、椅子まで戻る。各務にソファに座るように示した。 「ときどき、貴女に会いたくなるわ」四季は話す。「どうしてかしら」 「ご冗談ですね」各務はにこりともしない。今日も、服装は上下とも黒。サングラスが胸のポケットにあった。「どちらから、お話ししましょう?」 「どちらからでも」四季は椅子の背にもたれかかる。 「では、シアトルでの事故のことから」各務は脚を組み、上の膝に両手をのせた。「森川《もりかわ》さんがどこの店で飲んでいたのか、それはわかりませんでした。近くを方々当たりましたが、なにしろ賑《にぎ》やかな繁華街です。日本人の女性だから、それなりに目立つとは思いますけれど、でも、店の者が覚えていないと言えば、それ以上は聞き出すことは困難です。あとは、店に来ていた客にきく以外にないでしょう。もう少し時間をいただければ、あるいは何かの情報が得られるかもしれません」  四季は頷いた。 「加害者の運転手は、確かに、おっしゃったように、裕福ではありません。こちらは、これからの追跡調査が必要かと思われます。今のところは、目立った変化はないようです」 「私の思い過ごしだと思う?」 「わかりません」各務は首をふった。  四季の世話役をしていた森川|須磨《すま》という女性が、三ヵ月ほどまえに交通事故で死亡した。彼女は泥酔し、歩道から車道に飛び出したところをトラックにはねられた。ほぼ即死。シンポジウムに出席するために、四季と彼女はその街に滞在していた。そのシンポジウムが閉会し、次の日には発《た》つ予定だった夜のことである。  そのときは、とても驚いた。もちろん、外面的には冷静さを保持し、森川を失ったことによるビジネス上のダメージをいかに最小限に食い止めるか、という計算をまずした。そして、その計算のとおりに実行した。しかし、葬儀も終わり、周囲が森川のことを忘れ始めた頃になって、四季はふと気づいたのだ。  あれは、はたして事故だっただろうか?  そんな簡単な疑問が今まで顕在化しなかったことが、自分が受けた精神的ショックの大きさを示していた。否、その不覚自体が驚愕すべき問題で、そちらのショックの方がはるかに大きい。  数日の間、彼女は何も考えられなくなった。これは、目が見えなくなったような状態で、真っ暗な闇だけが認識され、底知れない恐怖を感じた。これまでにない体感だった。どうすれば良いのか、と自問しても、答はない。  一人でいると、躰が小刻みに震えだすようになった。筋肉が痙攣《けいれん》している。医者の診察を受けたが、もちろん何もわからない。原因は彼女には明確だったけれど、何故、こういった症状が現れるのかは不明だ。  しかたなく、アメリカを離れ、帰国することにした。世間には、体調を崩した、という情報だけが流れた。それは、そのとおり、間違いではない。  いずれにしても、半年後か一年後には、日本に戻るつもりでいた。それは、妃真加島の研究所が完成するからである。そこで、新しい仕事をする予定だった。もっとクリエイティブな、もっと純粋な仕事に、しばらく没頭したかった。  生きている間に、纏《まと》いついたものが、毛玉のように自分の躰の中に溜まっているように感じられる。そういったものは、もちろん個々には取るに足らない存在であるが、気がつくと、空間を占有し、道を塞《ふさ》ぎ、見通しを悪化させている。おそらく、森川須磨が死んだことで、その毛玉が一つになって、目に見える大きさの存在になったのだろう、と彼女は感じた。馬鹿馬鹿しい理屈である。しかし、言葉というものは、元来が馬鹿馬鹿しい記号なのだ。  日本に戻っても、ずっと森川のことが頭から離れなかった。いつも四季の一部は、森川の人格をトレースしていた。不思議である。彼女のことがそれほど気に入っていたわけでもない。単に、数年間、身近にいて、雑用を片づけてくれる役目の人間だった。平凡な人格だった。失われたものは少ない、と判断して良いのに、何故かその少なさを丹念に確かめようとしている自分がいるのだ。そして、そうした不毛な作業に没頭するあまり、森川の死を疑うこともなかった。交通事故で亡くなった、と信じてしまったことは、いったいどうしてだろうか?  当然ながら、周囲は誰も疑っていない。そんな話題も、そんな噂も聞こえてきたことは一度もなかった。森川はときどき多少酒を飲み過ぎることがあった。一人で飲みに出かけることも珍しくなかった。状況からは、不自然さはない。事故は街中のメインストリートで起こり、目撃者は大勢いた。加害者の運転手も、その場で拘束されている。  各務亜樹良には、まず森川須磨のその晩の行動を調べるように指示した。ホテルに宿泊していたが、彼女が酒を飲んだのは、ホテルの部屋やラウンジではない。街のどこかの店に彼女はいたはずだ。また、加害者の運転手の身元、誰かに依頼されたのではないか、最近大金を手にしている様子はないか、そういった調査も依頼していた。 「調査を続行しますか?」各務はきいた。 「続けて」四季は即答する。 「もう一点は、昨日お電話をいただいた調査に関してです」各務は無表情のまま話を切り換えた。「実を言いますと、非常に驚きました」 「もしかして、知り合い?」四季は尋ねる。 「いえ、知り合いというほどではありません。私の友人の知り合いです。差し出がましいこととは存じますが、何故、彼女について調査をされるのか、理由をお聞かせ願えないでしょうか? もちろん、理由がなくても仕事はいたします。けれど、もし可能ならば、個人的な問題としてクリアにしておきたいと思いました」 「大したことではありません」四季は微笑んだ。これは、森川須磨の場合とは、メカニズムがまるで違う。「昨日、こちらへ来て、久しぶりにN大学へ行きました。すっかり忘れていたのですが、以前に図書館で会った女性が気になるので、今どうしているのか、知りたかっただけです。彼女はそもそも何者ですか? あれだけの頭脳を持ちながら、論文なども一つも見かけない。まだN大にいるの?」 「瀬在丸紅子《せざいまるべにこ》は……」各務は歯切れの良い発声で話す。「もともと大学の教官ではありません」 「では、何を?」 「いえ、何も」各務は首をふった。「まだ、当地に住んでいますが、特に何もしていません。無職です」 「それは、働く必要がないからですね?」 「いえ、資産はほとんどありません。あの、四季様……、何故、彼女にご興味をお持ちなのでしょうか?」 「今は、何か働きかけをしようというつもりはありません。しかし、飛び抜けた才能を持っていることは確かです。もう少し彼女のことが知りたい。そして、可能ならば、引き抜こうと思いました」 「何故、今まで、それを……」各務は眉を寄せる。「非常に珍しいことを、さきほどおっしゃいました」 「ああ……」四季は頷いた。「すっかり忘れていた、と言いましたね。そう、面白いわ。瀬在丸さんのことは、あのとき、其志雄《きしお》に依頼したの。調べておいてねって。それが、その日のうちに、其志雄がいなくなってしまって、それで、彼とともに、その記憶が隠蔽《いんぺい》されていたようです」 「あの日ですね」各務は頷いた。「ええ、あんなショッキングなことがあれば、無理もないことです」 「いえ、私はとても良い経験ができて、むしろ喜んでいるの。なるほど、忘れるというのは、こういうことなのかって、初めてわかりました」四季は可笑しそうに言う。「なかなか不思議な感覚ですね。くすぐったい、に似ているかな」 「忘れることが、ですか?」 「いえ、思い出すことが」 「その感覚は、どうも私にはわかりませんが、はい、事情は理解しました。調べることは、もちろん簡単です。ただし、そうですね、おそらく何かの役に立つようなタイプの人間ではありませんし、また敵に回して脅威《きょうい》になるほどの才能でもないかと」 「面白いことを言う」四季は微笑んだまま各務を見据えた。「ああ、貴女……、何か彼女に恨みを持っている、あるいは、嫉妬している。そうでしょう?」 「あの……」各務は目を閉じて首をふった。「どうか、私自身の分析はご勘弁下さい。そういう防御が苦手です」 「そうかしら?」 「主観で申し上げたことは撤回いたします」各務は目を開ける。「レポートは一週間後に」 「もう一度会ってみたいわ」 「わかりました」各務は息を吐いた。「それでは、他に何もなければ、私はこれで……」 「ありがとう」四季は片手を差し出す。握手のつもりだった。  各務亜樹良は、四季の手を見て、一瞬だけ躊躇した。握手をする意味が思い当たらなかったからだろう。しかし、すぐにその手を握る。冷たい感覚だった。      3  翌日、四季はタクシーで那古野《なごの》市内へ向かった。後部座席には彼女が一人。助手席にボディガードの砂山《すなやま》という男が乗った。彼は今朝からの担当で、昨夜ホテルで四季の部屋の前に立っていた男と交替した。セキュリティの男たちの中では、一番若い。彼らは、各務亜樹良の指示で動いているが、本人たちは、そういった組織の構造については考えたこともなさそうだった。  台風が近づいているせいで、風があった。午後からは雨になるかもしれない。四季の大部分は計算をしていた。また、一部は、窓から風景を眺めていた。助手席の砂山が振り返って、四季を見る。彼女の膝を見た。 「お似合いですね」彼が言った。  服装のことらしい。否、それは誤認。本人さえ、間違って認識している可能性が高い。彼女は、自分の膝を見た。 「スカート?」四季は尋ねる。  砂山は目尻に皺《しわ》を寄せて微笑んだ。何も答えない。 「スカートの細かい連続模様が気にならない?」彼女は面白かったので、話すことにした。「平面を埋め尽くすことの不自由さは歴史的にもさほど問題になったことはないようです。単に大小の問題、つまり、入るものは入る、入らないものは入らない。入っても隙間ができる。隙間ができない形を試行錯誤で求める、ああ、とても単純ね。最初にすべての真理があるはずなのに、誰もそれを知ろうとしない。平面で得られた真理は、立体にも、多次元にも、そのまま通用するでしょう。通用することが、すなわち真理という意味なの」 「いえ……、あの、私は、その、そういうことが気になったわけではありません」砂山が顔をしかめる。 「では、スカートの皺が、空間の歪《ひず》みを象徴しているってことかしら?」  砂山が片手を広げて、小さく頷いた。もう勘弁してくれという意味だろう。彼女にとっても、この種の防御をしておくことは、意味のないことではない。相手に抱かせるイメージは、非人間的なものほど安全だからだ。それは、確かに短いスカートを穿いていることとは矛盾している。この矛盾は、しかし自己の中に存在する無数の矛盾に比べれば大きくはない。  そうだ、矛盾だ。  あの瀬在丸紅子という女から感じたものが、それだった。 「今日は、MNIのあとのスケジュールは?」 「N大の総長とのランチです」 「キャンセルして。用事を思いつきました。先方への理由は、健康が優れない」 「わかりました。電話を入れておきます」  車が車道から乗り入れる。広い駐車場が右手に、奥には五階建ての大きな建物。公会堂のような雰囲気である。玄関前に男が二人立っていて、車が近づいていくと頭を深々と下げた。  四季はさきに車から降りた。 「どうも、お忙しいところを、ご足労いただきまして、まことに恐縮です」佐織宗尊《さおりむねたか》が言う。もう一人は若い男で、おそらく佐織の部下だろう。  来たかったわけではない。つまらない場所だ。今回が初めてだったが、実物を見る価値があるとは思えなかった。  四季は微笑んで片手を差し出した。佐織が彼女の手を遠慮がちに握った。  タクシーから砂山が降りてくる。一通りの紹介のあと、建物の中へ入った。ロビィはひっそりとして人の気配《けはい》はない。駐車場には沢山の車があったので、どこかに集まっているのだろう。なるべく人に見られたくない、という事情を配慮して、佐織が手配したものと思われる。  四人は、エレベータに乗って五階へ上がった。通路を歩き、部屋の前で佐織は一度立ち止まり、砂山を見た。 「ここで待っていて」四季は彼に命じる。  部屋の中へは佐織と四季の二人だけが入った。広い応接室で、窓が大きく明るい。片側の壁は書棚。反対側には大きな絵が飾られている。しかし、佐織という男を象徴するような茫洋として単純な絵柄だった。 「絵をお描きになるの?」四季はソファに座りながらきいた。相手を喜ばせるための言葉を選んだに過ぎない。 「ああ、ええ、お恥ずかしいかぎりです」佐織はまだ立っている。「お飲みものは、何がよろしいでしょうか?」 「紅茶を」  窓際のデスクへ行き、そこにあった電話で彼はその指示をする。戻ってくるときは両手を擦り合わせ、いかにも嬉しそうな表情をつくった。 「いやぁ、四季様、実にお久しぶりでございます」 「三日まえに電話でお話ししたばかりですよ」 「いえ、お姿を拝見するのが」 「テレビを見ないの?」 「もちろん、すべて拝見しております。が、しかし、こうして、その、目の前にいらっしゃる、それは、また全然違うものなのです」 「ああ、そうですね。こういうラフな格好ではテレビには出られませんから」 「ますますお美しくなられて……」 「そういう話は無駄です」四季は微笑んだ。「どうもありがとう」 「あ、ええ、出資に関してですね? お礼など、とんでもありません。はい、もう、それはこちらとしても願ってもないチャンスをいただいた、と理解しております」 「いえ、違います。貴方のお世辞に対してお礼を言ったのです。出資に関しては、そのとおり、ほとんどリスクがありませんので、私がお礼を言う筋合いではありません」 「はい、当然、こちらからお礼を申し上げるべきことです」佐織は頭を下げる。「よく、この私にご指名を……」 「お世話になりましたからね」 「工事を視察されたのですか?」 「見ました。しかし、器は問題ではありません。そこに入るものに比べれば」 「器も、商売には必要なものです」 「そのとおり」  ドアがノックされ、トレィを持った男性が入ってきた。部屋の前まで一緒について来た男ではない。別のもっと若い青年だった。四季の前に紅茶のカップを置く。  彼が出ていくまで、四季は部屋の様子を観察した。書棚に並んでいるすべての本のタイトル、絨毯《じゅうたん》の模様、その隠れている部分の推測、天井の防音材の穴の数、テーブルのガラスの固定方法、ドアの蝶番《ちょうつがい》の位置、卓上ライタに残った指紋、佐織宗尊のスーツの皺から推測される彼の行動、紅茶を持ってきた青年の靴のメーカ、一度開いたドアの外の様子、砂山は外でもう一人の男と話をしているようだ、天井のシャンデリアの重量、そして、鎖を支える金具の推定強度、スプリンクラの位置、デスクにある郵便物の数、佐織が描いたという絵の色彩パターンの分析、天井近くにあるスピーカらしきもの、あるいはカメラ。しかし、四季の大部分は、それらにはまったく関心がない。ここを出たあとに行く場所と、そこでのシチュエーションの予測をしていた。 「私が紅茶を飲むことを予測していたのですか?」相手がきいてほしそうだったので質問した。 「はい、用意できるものをすべて用意していただけです」佐織は嬉しそうに微笑んだ。こういった笑顔は彼には武器になるだろう。「お持てなしとは、いかに無駄な労力をかけるかです」 「私が選ばなかったものは、どなたかが召し上がって下さい」 「ご心配なく」  四季はカップを手に取り、口へ運ぶ。 「お気に召さないことかと存じますが、お耳に入れておかなければなりません」一変して難しい表情になり、佐織は身を乗り出した。「実は、国内大手メーカが、こちらの動きを牽制《けんせい》してきました。今のところ、わかっているのは二社ですが、いずれ増えることになるでしょう。彼らは、四季様のことを調べ始めています」 「予測していました。利益が出る見込みがあれば、その分どこかでは損失が出ます。そういったことには敏感ですからね」 「研究所の工事を遅らせるような働きかけもありましたが、それは、なんとか手を回して解決しました」 「法規上の問題を突いてくるだろうと考え、わざと法規上引っかかる部分を残しておいたのです」 「なるほど、トカゲの尻尾みたいなものですな。しかし、そういった攻撃に対しては、お金が最も手っ取り早い」 「歪みは残りませんか?」 「これは短期決戦ですので」 「お任せします」 「取り越し苦労かとは思いますが、いろいろと身辺にお気をつけ下さい。おそらく、スキャンダルを欲しがっているでしょう」 「スキャンダル?」 「真賀田四季というイメージの価値を落とそうとするはずです」 「そんなものは、最初の小競《こぜ》り合《あ》い。私たちが作り上げる製品を見れば、イメージなど無関係になります」 「はい、わかっております。しかし、商売では、最初にどこで手を打つか、それを決めなくてはならないのです。まだ出来上がっていない商品に対して、値段を話し合うのです」 「ええ、それもお任せします」  つまらない話になったので、四季の大部分は深いところへ潜ってしまった。いつもの仕事を進めるつもりだろう。残った部分の彼女は、スキャンダルの可能性を五十通りほど想像した。どれも面白くもない。しかし、そういったものが存在することは認める必要がある。空気中に舞う埃《ほこり》のようなものだ。明るくなると見える。集まれば気にもなるだろう。  図書館にある書物のことを連想した。触ったあとに手が黴《かび》臭くなる。小さかった頃には、ずっと本を読んでいたものだ。最近ではインプットの時間は少なくなった。相対的につまらない情報が増えた。何か面白そうなものを今のうちに見つけておかなければならない。このままの推移では将来きっと投げ出したくなる。つまり、生きていることを。 「ですから、私のような者とは、もうお会いになられない方が得策でしょう」佐織が言った。スキャンダルの話題のようだ。「おそらく、私が出資していることが知れれば、マスコミはそこを取り上げようとするでしょう」 「貴方は、何か後ろめたいことがあるの?」 「とんでもない」佐織は笑った。「しかし、ここは会社ではありません。宗教団体です」 「その平均的なイメージを私は持ちません」 「この国の国民の多くは、否定的です。宗教が民衆を救った歴史がありません」 「宗教が人を殺した歴史ならば、世界中にあるわ」 「とにかく、ここでお会いするのは今回きりにいたしましょう。以後は、電話か、あるいは人を介してご連絡を差し上げます。私としては、大変残念ですが。いずれ、ほとぼりが冷めるまでは……」 「わかりました。お気遣いに感謝します」 「いつか、四季様の絵を描かせていただくことが、私の人生の夢です」佐織は言った。「死ぬまでになんとか、それを実現させていただけないでしょうか」 「貴方の自由では?」 「ありがとうございます」      4 「キャンセルは?」車に乗り込み、四季は砂山にきいた。 「はい、お大事に、というメッセージでした」彼は助手席から答える。「それから、ご指示の件ですが、この時間は、大学の図書館へ行くようにとの連絡が、さきほど」 「では、そちらへ」四季はシートにもたれて目を瞑った。 「もう一つ、ドクタ・スワニィからホテルに電話があったそうです」 「ああ、そうね、京都でバイオテクノロジィの国際会議だった」 「是非、お会いしたいとのことですが」 「那古野が京都の郊外だと思っているのね。わかりました、あとで電話をします」  スワニィ博士は、アメリカで三度会ったことがある。四季にとっては他分野の権威である。ちょっと珍しい人格なので、会うことが多少面白い。  そういった思考は静かに沈み込み、佐織宗尊がこれまでに得た利益、そしてこれから得られるだろう利益を見積もった。一番不確定なのは、六十歳を越えた男が、自分の人生にどれくらい執着するものか、という点だった。これはばらつきのある要素といえる。プロジェクトの遂行には、なるべく若い人材を使った方が得策だ。その方が心理が読みやすい。人は年齢を重ねるほど、理屈から離れ、複雑に捩《ねじ》れる。  目を開けると、既にN大学のキャンパスが見えた。場所が近かったようだ。 「図書館となると、大勢に見られることになります」砂山が言った。食事の約束をキャンセルした相手に対する気遣いだろうか。 「かまいません」四季は答える。  しかし、休日の午前中のためか、キャンパスに人は少なく、図書館の前もひっそりとしていた。車を正門の外に待たせておき、彼女は一人で館内に入った。カウンタの女性が四季に気づき、目を丸くして立ち上がる。 「真賀田四季といいます。入ってもよろしい?」彼女は小声できいた。 「あ、はい……、あの、館長は、ただ今、その」 「館長に用事はありません。本が見たいだけです」 「どうぞ、あの……、はい」顔を赤らめて、手を持ち上げて、オーバなリアクションだった。 「この図書館の私の登録は期限切れかしら?」 「いえ、もちろん、ご自由にどうぞ……」 「私がここへ来たことを、どこにも連絡しないで下さい」 「あ、はい。わかりました」  四季は、閲覧室に入って、辺りを見回した。何人かがこちらを見ていた。隣の者に知らせている女性、書棚の前で振り返って立ち尽くす男性。しかし、ここにはいない。奥の書棚の辺りにもそれらしい姿は見つからなかった。  四季は真っ直ぐに部屋を横断し、階段を上がった。上階にも閲覧室がある。あるいは、資料室か、それとも以前と同じ、地下の書庫か。しかし、踊り場で向きを変えたとき、二階のロビィのベンチに座っている彼女を発見した。  白いワンピース。膝に分厚い本をのせている。彼女の横、ベンチの上にも、まだ数冊の本が積まれていた。下を向き、長い髪を片手で押さえ、彼女は本を読んでいる。近づいていっても顔を上げなかった。  四季は、彼女から二メートルほどの距離で立ち止まった。ロビィは高い窓から光が入る。ベンチに座っているのは、彼女だけだった。右方向には、小さな閲覧室。奥に書架が見えた。そちらには人が何人かいるようだが、こちらを向いている者はいない。  彼女が読んでいる書物を確認する。  ようやく彼女が顔を上げた。  四季をじっと見る。  二秒。 「あぁ……」彼女はにっこりと微笑んだ。「えっと、栗本《くりもと》其志雄さんの妹さんね?」 「こんにちは、瀬在丸さん」四季は頭を下げる。「さすがに速いですね」 「何が?」紅子は首を傾げた。「五年ぶりかしら。一瞬、誰だかわからなかった。ずいぶん大きくなられましたね」 「私の名前をご存じなのでは?」 「え? でも、妹さんの方のお名前は、伺っていません」 「真賀田四季といいます」 「真賀田……、四季さん」紅子は繰り返す。「では、あの真賀田左千朗博士の?」 「はい。娘です」 「お父様の論文はだいたい拝見しています」 「私の論文は、残念ながら、まだ一般誌に載ったものはありません。半年後には、幾つか掲載されるでしょうけれど……、論文なんてものを書いている時間がなかったものですから」 「すると、あのとき、地下の資料室でお見かけした方が、真賀田博士だったのですね?」 「私をテレビで見たことがありませんか?」 「私、テレビも新聞も見ないの」 「そうおっしゃっていましたね」四季は頷いた。 「お座りになったら」紅子はベンチの本を押して、自分も端へ移動した。  四季は、そこに腰掛ける。ずっと、紅子の顔を、彼女の瞳を見ていた。相手も、じっとこちらを見据えている。いずれの顔も微笑んでいたが、しかし、少しでも多くの情報を読み取ろうと、相手の観察に集中する視線を交わしていた。  四季の中では、既に議論が巻き起こっていた。瀬在丸紅子に対する評価が分かれたのだ。六割は、彼女との接触は無駄であると断定した。残りの四割は、今も可能性を見出している。人の評価で意見がこれほど分かれることは、極めて珍しい。 「お兄様は?」紅子はきいた。 「兄はいなくなりました」四季は正直に答える。 「ああ、それは淋《さび》しいでしょうね」 「瀬在丸さんは、現在、どんなご研究を?」 「いえ、駄目なの」紅子は苦笑した。「どうも、最近、頭が悪くなってしまって、思うようにいかないわ。確かめたくても、設備がない。ほんの少しですけれど、幾つかアイデアはあるの。でも、片っ端から計算させるやり方が、今はもう主流です。それに、こうして、読まなければならない情報もどんどん増えている。とても全部は読み切れないわ」 「読む必要なんてないと思います。屑《くず》のような情報ばかりです」四季は一瞬だけ間を置いた。「もし、計算機がお使いになりたいのでしたら、融通いたします」 「融通するって? お下がりの機械でもあるの? 是非譲っていただきたいわ。あ、でも、うちで動かすなんて無理ね。電気代もかかるし、とても置き場所がない」 「もっと、小型のものが作られています」 「ええ、でも、まだまだ容量が小さいから」 「使い方しだいです。そちらへ、一つお届けしましょう」 「どうして?」きょとんとした表情で紅子は大きな瞳を四季に向けた。 「好意です」 「フェイヴァ? カインドネス?」紅子はすぐにきき返す。  四季の中で評価が逆転した。 「是非、貴女と一緒に仕事がしたいと思います」四季は言った。 「どんな?」 「貴女の好きな仕事を」 「そうならば、もうしています」紅子は微笑んだ。「私は貴女にはとてもかなわない。貴女は、これから立派な仕事を沢山なさるでしょう。でも、私はもう引退です」 「そんなことはない」 「ごめんなさい。コンピュータはとっても欲しいけれど、そんな何百万円もするようなもの、とてもいただけません。それに、その報酬に見合った仕事も、私にはできません。貴女が想像している以上に、私は気難しくて、協調性がなくて、人のため、社会のためになるような仕事なんて、とてもできないの。重荷なんです。役に立たなくちゃいけないと思うと、もう駄目。何も考えられなくなってしまう。そういう欠陥品なんです」 「勧誘のし方を間違えました」四季は微笑んで頷いた。「ええ、わかりました。でも、もし少しでもお気持ちが変わったら、いつでも、是非」 「ええ……、ありがとう」  紅子が膝の上にあった片手を僅かに持ち上げたので、四季はその手を握った。細い指輪を見る。彼女は既婚者なのだ。 「では、これで失礼いたします」四季は立ち上がった。  お辞儀をして、階段の方へ向かう。 「あの……」紅子が呼び止める。  四季は振り返って彼女を見た。 「このお話のために、いらっしゃったの?」 「はい」四季は頷いた。「それが、貴女の価値です」 「ごめんなさいね。期待を裏切ってしまって」 「いいえ、とんでもない」  四季はもう一度お辞儀をしてから、階段まで歩く。ステップを三つ下りたとき後ろを振り返った。  瀬在丸紅子は既に本に視線を落としている。こちらを見ていなかった。四季の中で、彼女の評価は既に一致していた。      5  喜多北斗《きたほくと》は、図書館のロビィのガラスドアを押して入ろうとしたが、振り返って、数メートル遅れて歩いていた友人を待ってやることにした。  彼のすぐ横でドアが開いて、ほっそりとした女性が出てきた。短いスカートから伸びた直線的な脚、長い髪、白い肌。あいにく顔はしっかりとは見えなかった。大学生だろうか。  その彼女が友人とすれ違い、道路を横断して、メインストリートの方へ下っていくのを目で追った。 「どうしたの?」友人が目の前に立ってきく。 「彼女」喜多は、顎を上げて、そちらを示す。  友人は一瞬だけ振り返った。関心がないようだ。こいつを待たずに、素直にドアを開けていたら、彼女を正面から見られたのに、と喜多は思った。  試験休みだが、数学の雑誌にある懸賞問題の答を書くために、N大の図書館へやってきた。その雑誌のバックナンバが揃っていて、過去の模範解答がある、と友人から聞いたからだ。彼はこの近くに住んでいるので、ちょくちょくここの図書館へ来ているらしい。喜多は初めてだった。  とにかく、ロビィに入る。 「どっち?」喜多は尋ねた。 「短気だな」友人は口もとを僅かに緩《ゆる》める。  会話をしていると腹が立ってくるので、早めに諦めた。短い溜息をつき、喜多は友人に従って、階段を上る。彼よりも後ろを歩くということが、なかなかの試練だった。  二階のロビィへ上がったとき、ベンチに腰掛けていた女性が顔を上げた。大きな瞳を丸くして、口を開ける。 「あらぁ、どうしたの?」彼女が言った。  喜多の知っている人間ではない、つまり、友人に話しかけているのだ。 「いや、ちょっと、調べもの」 「珍しい。学校の図書館じゃ駄目なの?」 「うん、まあ、そうかな」  彼女が喜多の方へ視線を向けたので、彼はお辞儀をする。 「お友達?」 「あ、うん」 「喜多といいます。犀川《さいかわ》君と同じ組の」友人が紹介してくれないので、一歩前に出て自己紹介する。 「あらまあ、もしかして、生徒会長さんとか?」 「違います」喜多は可笑しかったので笑った。「あの……」  彼女は首を傾げる。 「おい」隣の友人を睨んでやる。 「何?」  気の利かない奴だ。この女性が誰なのか、普通だったら紹介するものだろう。 「私? この子の姉です」彼女はそう言って、くすっと笑った。 「それ、冗談ですよね」喜多は恐る恐るきいた。 「あれ、わかった?」彼女は両手で頬を覆う。意味のわからないジェスチャである。 「親戚の人?」喜多は友人に小声できいた。 「あ、うん、まあね」  歯切れの悪い奴だ。いつものことである。 「もう、行くよ」彼はそう言うと、さっさと奥へ入っていってしまう。 「頑張ってね」彼女は、片手を振って、にっこり微笑んだ。  喜多も頭を下げてから、その場を立ち去った。  閲覧室を横断し、書架の間へ入っていく。友人に追いつき、喜多は、彼の肩を掴んだ。 「凄い美人じゃん。あれ、誰? 叔母さん、従姉妹? いくつくらいかな? 三十まえ?」 「聞いてどうするわけ?」書棚を見上げながら、友人が言う。 「いや、どうするって……。あ、それって、けっこう際どい表現」 「馬鹿馬鹿しい」 「お前が話さないからだよ」 「ちょっと静かにしてくれないかな」彼はようやくこちらを見た。しかし、僅かに顔が笑っている。「図書館なんだから」 [#改ページ] 第2章 隷属と支配の活路 [#ここから5字下げ] まことに、死すべきものの一切は、こうした仕方によって保たれているのです。すなわち、たとえば神的なもののごとく、永遠に、完全に、同一である、という仕方によってではなく、むしろ、去るもの、古びゆくものが、昔日の自己の姿と相似た、しかし新しい別のものを、みずからの背後に残してゆく、という仕方によってなのです。 [#ここで字下げ終わり]      1  夕暮れの道は混雑していた。  四季から電話があり、新藤清二は、ホテルから一人、タクシーに乗った。指定の場所、大通りの交差点で四季が待っていた。歩道橋の階段の下だ。タクシーのドアが開くと、笑顔で乗り込んできて、新藤に躰を寄せた。 「どちらまで?」運転手がきいた。  行き先は四季が答え、車は再び動き始める。その後、一時間近くも走った。  四季は途中で眠ってしまった。新藤は窓の外を眺め、ときどき隣の彼女を見て、そして考えた。  いったい、これからどうなるのだろう?  誰にも行き先を話してこなかった。四季もおそらく同じだろう。一緒に出かけたところを目撃されたくないから、ホテルへ戻らず、途中で合流したのだ。秘密のイベントだという認識を、彼女も、そして彼も持っている。否、親族として、保護者として、彼女が行きたいところへ連れていってやることは、特に不自然なことではない、彼女はまだ十三歳の少女、子供なのだ。  ただ、四季の態度が、少しずつではあるけれど、エスカレートしていることは確かに思えた。二人の位置は、より接近し、躰に触れることが多くなり、話すときの顔の距離もずっと近くなっていた。  数が小さくなれば、いずれはゼロになる。  接触することになる。  そうした予感を、持たずにはいられない。  むしろ、恐怖に近いものかもしれない。  しかし、  自分は、どこかでそれを望んでいるのではないか、と新藤は思う。  兄のことを考える。彼女の父親だ。  妻のことを考えた。彼女の叔母になる。  しかし、彼女は、普通の人間ではない。  これは、特別な状況なのだ。  唯一といって良い。  すべてに優先する、と考えても良いのでは……。  彼女は下を向いている。  長い髪が肩を隠し、  首筋、  白い腕、  シートに落ちた手、指、  白い膝、  車の振動で揺れている。  触れたい、と思った。  窓の外へ無理に視線を投げる。  バックミラーの中を確認した。  運転手は無口だ。四季のことを知っているだろうか。テレビで見ているかもしれない。彼女は、帽子もサングラスもしていなかった。  時刻は六時を回っているが、まだ充分に明るい。西へ向かって走っているため、前方が眩《まぶ》しかった。郊外の真っ直ぐの道路で、遠くには山脈、近くには田園が広がる風景がときどき見えた。  遊園地の標識が前方に現れ、やがて車は、幹線道路から逸れて左折する。  突然、四季がもたれかかってきた。  新藤の肩に彼女の頭が当たり、そのまま、彼の胸、そして膝に、彼女は縋《すが》りつくような格好になった。  無言。  四季の髪が、彼の片手に絡みついた。  もう一方の手は、逃げ遅れて、彼女の背中を支えていた。  体温が遅れて伝わってくる。  彼女はシートにほとんど横になった状態で、顔を前に向けている。  彼は手を動かす。  絡みつく四季の髪を、そっと梳《す》き、  もう一度戻って、それを撫でた。  彼女の躰が捩れ、肩が彼を圧迫した。  彼のすぐ下で、四季が顔を上に向ける。  目を開けている。  笑っていた。  黙って、息を殺しているように。  子供のように笑っている。  眠っていたのではない。  彼女は悪戯《いたずら》をしたつもりなのだろう。  新藤は彼女の髪から手を離す。  四季は機敏に起き上がった。 「もうそろそろ?」何事もなかったように彼女は尋ねる。 「すぐ、そこです」運転手が答える。「今日は、花火があるからね、混雑しているかもしれません。マイカーで来た客は、大変ですよ」 「花火か、それはいいね」新藤は呟《つぶや》く。  四季も頷いた。嬉しそうな顔をしている。花火が始まるのは、暗くなってからだ。  ヘリコプタのロータ音が聞こえた。すぐ上を通り過ぎていくような音だった。新藤はガラスに顔を寄せて、上を眺めた。斜め前方のかなり低空に、機体を傾けて旋回していくヘリコプタが見えた。      2  空が暗くなっても、園内の空気は白い綿飴《わたあめ》のように明るく、そして甘かった。どこでも賑やかな音楽が流れ、呼び込みの声、人々の声が混ざり合い、ノイズを形成している。人が多いこともあって、誰も四季には気づかない。新藤と彼女はまず観覧車に三回続けて乗った。次にメリーゴーラウンドに一度乗り、そのあと、小船に乗ってトンネルを抜けるアトラクションの前では、人の列に並ぶことを諦めた。セルフサービスのカフェテリアでは、多少の忍耐で、なんとか飲みものを買うことができた。テーブルは冷房のない屋外しか空いていない。それでも、運良く、二人の前で家族連れがちょうど席を立ったところだった。  ずいぶん歩いたように思う。座れることがありがたかった。  辺りを観察する。さきほどから気づいていたことだが、制服の警官を何人か見かけた。 「楽しい?」新藤はアイスコーヒーを一口飲んでから、彼女に尋ねた。  四季は無言で頷いた。口数は少なくなっている。疲れたのかもしれない。あるいは、別の仕事に集中しているのだろう。  突然大きな爆音がして、周辺で小さな悲鳴が上がったが、建物の屋根越しに、大きな光の輪が広がり、続けて、細かい閃光《せんこう》が断続的に続いた。花火が始まったのだ。  四季は目を丸くして、空を見上げていたが、やがて新藤の方を向いた。驚いたという表情のままだった。 「驚いた?」彼はきいた。  四季は頷く。そして微笑んだ。 「無駄なことをするね、人間って」新藤は呟く。  四季は首を横にふった。 「疲れたようだね」 「少しだけ」 「そろそろ帰ろうか?」 「もう少し、こうしていたい」  また、爆音が響く。空気に伝播《でんぱ》する圧力が躰で感じられるほどだった。人々は、光と音の方向へ歩き始めている。もっと近くで見よう、もっとよく見える場所へ行こう、という欲求だろう。流れるように、安定を求めて粒子が移動する様に似ていた。  四季はしかし、もう空を見ていない。どこも見ていない。両手で持ったカップを口に運んでいるときも、じっと、青い瞳を新藤の方へ向けていた。かたときも逸らせることがなかった。  もっと口をきいてくれれば、もっと話題があれば、なんとかなっただろう、こうして周囲の喧噪《けんそう》の中にあって、局所的な沈黙が結界のように作られ、ここだけに異なる時間が流れている。それが、とても新藤には耐えられない。さきほどから、髪に手をやり、額の汗を拭っている、そんな落ち着かない自分に、彼は気づいていた。 「失礼、ちょっとトイレに行ってくるよ」新藤は立ち上がった。「すぐに戻るからね」四季は頷いた。  新藤は、人々の流れに逆らい、売店の建物の方へ歩き始めた。  途中で一度だけ振り返った。  小さな丸いテーブルと椅子、その一つに四季は腰掛けている。  周囲には家族連れ、若いカップル、いろいろなグループがテーブルを囲んでいたが、ひっそりと、四季のいるテーブルだけが浮かび上がって見えた。誰も、彼女が世界を揺るがす天才だとは気づいていないだろう。こんな場所に、彼女がいることさえ奇跡なのに。  建物の出入口に制服の男が一人立っていた。遊園地のガードマンではない、警官である。 「何かあったのですか?」新藤は尋ねた。 「いえ、あの、お答えすることはできませんが。大丈夫です、特に危険なことはありませんので」顔は若そうだった。社交的な口調である。 「あの、あそこのテーブルの……、あの女性、白い服の、こちらを見ている、彼女のことを、ちょっと見ていてもらえませんか」新藤は言った。「すぐに戻りますけど、少し心配なので。もちろん、何もないとは思いますが。あの、とても重要な人なので」 「はあ」警官は困った顔をしたが、一応頷いた。「長時間はお約束できませんし、ずっと見ているわけにはいきませんが、しばらくはここにおりますので、ご安心下さい」 「ありがとう」新藤は片手を持ち上げる。  建物の中へ彼は入っていった。入口付近には売店、奥は食堂だった。クーラが効いて、室内は涼しい。しかし、売店は混み合っていて、前に進むのがままならない状態だった。      3  愛知県警の祖父江七夏《そぶえななか》は、人の流れの中を進み、建物の前に立っている警官に近づいた。 「敬礼しないように」彼女は視線を他へ向けたまま小声で話した。「名前、なんていったっけ?」 「杉本《すぎもと》です」 「一人で、ここに?」 「はい、吉松《よしまつ》巡査部長の指示で、ここに配置されました。もう一人は、この建物の向こう側におります」彼は指で示した。 「こんな目立つ場所に制服で立っていたら、何事かと思われるだけだよね」七夏は言う。「この建物、中は何が?」 「売店と食堂、トイレ、あとは、二階に事務所があります」 「吉松さんに言っておくから、二人とも、あっちのイベント館の方へ回って。向こうが手薄なんだ」七夏は言った。 「わかりました」警官は頷いた。「あ、でも……」 「何?」 「さっき、あそこの、彼女、ほら、美人があそこに座っているでしょう」警官はカフェテリアの方を指で示す。 「そういう表現は好きじゃないけど。何なの?」 「あの子の、お父さんかなあ、さっき、この中へ入っていったんですが、戻るまで、あの子のことを頼むって」 「何、それ」 「さあ……、まあ、心配ですよね。あの年頃の子は」 「いいから、行きなさいよ」七夏は舌打ちして、顎を上げる。「わかった、じゃあ、しばらく私が見てるから。ちょっと煙草《たばこ》吸いたかったし」 「なんだ」 「なんだとは、何?」 「あ、すいません」  いつの間にか、二人とも向き合って話をしていた。警官が立ち去ると、七夏は周囲を見回した。彼女はもちろん私服だ。いつものスーツではない。遊園地にとけ込めるよう、多少ラフなファッションだった。野球帽を被《かぶ》り、メガネをかけている。ようするに、休日のいつもの格好である。  建物の中に一度入り、売店と食堂をざっと眺めてきた。十秒間くらいだっただろう。再び外に出て、ドアの外に立つ。  花火がけたたましい音を立てている。ほとんどの人間が顔を上に向けて、南の空を眺めていた。こういうときに、そちらを見ていない人間は目立つ。彼女はそんな不審な人物を捜した。  ずっと追っている相手だ。  美術品専門の窃盗犯。  怪しい人物に狙いをつけ、もう少しのところまでいっていた。  相手も、危険を察知したのだろう、突然、姿を眩《くら》ましてしまった。それが、もう五年ほどまえのこと。  その後も、何度か、彼の手口らしい事件が続いたが、警察は常に後手に回り、彼の足跡を確認するだけだった。手口も様々、狙うものの予測もつきにくい。  今回は、ヨーロッパの美術館の品が、この遊園地内にあるイベント館のホールに出張展示されている。日本中の十数ヵ所を展示物は回るらしい。通常であれば、美術館が会場になるところだが、急な企画だったのか、この地方ではここになった。一週間の開催期間の今日が初日である。  非常に危ない、奴にとってはチャンスになるだろう、という計算は容易だった。  品物に対する好み、前回とのインターバル、そして、地の利、さらに、警備が困難な施設であることなど、いずれの要素も、高い確率を弾き出す。先手を取って、警備に当たる価値は充分にあった。結果として、こういったケースでは異例の人数が割り振られたのである。  近頃では、この美術品専門の盗人の存在に、マスコミの一部も感づき始めていた。別の事件の記者会見の場で、顔見知りの記者から尋ねられたことがあった。 「先日の丸Mデパートの印象派展であった盗難ですけど……、その後、どうです?」 「駄目」七夏は首をふる。「一応、まだやってはいるけれど、何もないよ」 「半年まえに、三重でも、ありましたよね。えっとリゾートの美術館で」 「そう?」七夏はとぼける。 「ちょっと調べてみたんですけどね、このところ、この近辺で、つまり、愛知だけじゃなくて、岐阜、長野、静岡、三重で、かなりの頻度で絵画が盗まれているんですよ。知ってました?」 「私、部署が違うから」 「やってはいるって言ったじゃないですか、祖父江さん」 「うーん、まあ、ときどきね」 「なんか関連があるんじゃないですか?」 「偶然よ、そんなの」 「いいんですか? そんなふうで。ちょっとね、手口が、なんていうか、怪盗っぽいですよね。ほら、いつだったかな、那古野の美術館でも、一度、やられましたよね、関根朔太《せきねさくた》の……」 「ああ、ええ……」 「ほらぁ、何か隠しているでしょう?」 「隠してない隠してない」七夏は首をふる。「ちょっと、忙しいから、うん、またね。頑張って」  なんとか、その場を逃げ出してきたが、非常に危ない感じだった。マスコミは、こういう話が好きなのだ。殺人事件よりも好きかもしれない。怪盗なんていう呼び方が、そもそも好意的である。本気になって取り上げられたら、苦しい立場になるだろう。窮地に追い込まれる、といっても過言ではない。  そういうわけで、今回、ここへ出てきたのである。七夏自身が会議で提案し、プロジェクトの大枠を立案した。一応、形式上は上司が指揮をとっているが、事実上、彼女がリーダだ。他に大きな事件がなかったこともあるとはいえ、五十人近い人員を集めた。制服警官の数が多いのが不満だったが、抑止の効果はある、という上の意向らしかった。 「抑止してたんじゃあ、いつまでたっても捕まらないよな」七夏は呟く。 「すみません」後ろから声をかけられた。  中年の男が立っていた。こちらを見ているので、七夏に話しかけていることは確かだ。 「あの、ここに、警官がいませんでしたか?」辺りを見回しながら男は言った。眉を寄せ、難しい表情である。 「ええ、今さっき、どこかへ行きましたよ」七夏は答える。「どうかしましたか?」 「いや……、まいったなあ」舌打ちをして、男はさらに周囲を忙しく見回した。警官が話していた例の男か、と七夏は思い至る。娘を気遣って見張りを頼んだという……。彼女は振り返って、カフェテリアの方を見た。 「あれ?」思わず小声がもれる。  白いテーブルに座っていた少女の姿がなかった。  男は既にそちらへ歩きだしていたが、左右を見回し、サーチライトのように遠くへ視線を向けている。七夏も辺りを探してみた。近くには見当たらない。多少、責任を感じたものの、おそらく、どこかへ化粧直しにでもいったのではないか、と彼女は考えることにした。      4  偶然にも、各務亜樹良が同じ遊園地の中を歩いている。彼女は、別の仕事でここにいた。隣に長身の男がいて、彼の右腕に彼女の左腕が組まれている。躰を寄せ合い、無駄な力をかけて歩いていたが、これは愛情の表現ではない、仕事のうち、と彼女は自分に言い聞かせていた。  男が立ち止まり、辺りを見る。すぐにまた歩きだしたが、各務に顔を寄せてきた。 「女につけられている。なんだ、あれ。君の知り合いか?」  少し歩いてから、暗い場所を選んで、自然な素振りで後ろを確かめた。後方の何人かの中から、対象を見つける。  彼女は一瞬震えたかもしれない。 「誰?」男がきいた。「もしかして、君のファン?」 「びっくりした」各務は囁《ささや》く。「どういうことかな」 「せいので、走りだす?」男が面白そうに言う。 「警官じゃないよ」各務は言う。「ああ、でも、どうして」 「ぶつぶつ言ってないで、こういうときは、誰かに相談したらどうかな。たとえば、親しい信頼できる人物に」 「どこにそんな奴がいる?」 「誰なの?」 「真賀田四季」 「え?」男も一瞬歩調が乱れた。さすがにすぐに振り向くことはしなかった。「どうして、僕たちのあとを?」 「貴方じゃない、私」 「知り合い? 良い仲? もしかして、恋人?」 「ちょっと別れましょう。話をつけてくるから。十分後に、この先の橋のところで」 「今夜は、もう引き上げよう」彼は言った。「警官が多すぎる」 「一人で帰らないでよ」 「なんて優しいお言葉」男は肩を竦《すく》めた。  彼はそのまま歩いていく。各務は立ち止まって、そこで煙草に火をつけた。左手に小さな人工の川が流れている。細い花壇を挟んで歩道脇にベンチが並んでいて、ほとんどはカップルに占領されていた。一番近いベンチだけが空席だ。常夜灯のすぐ下、屑籠のすぐ隣という立地のためだろう。しかし、吸い殻入れもある、悪くない。彼女はそこに腰掛けて、脚を組んだ。それから、右へ視線を向ける。四季は十メートルほどのところで立ち止まり、こちらを見ていたが、数秒間のち、こちらへ近づいてきた。 「こんばんは」四季は各務の前に立って言った。  各務はベンチから立ち上がり、一礼する。 「よく私だとわかりましたね」各務は言う。「どうぞ、お座りになって下さい」  四季はベンチに腰掛ける。各務はその隣に座った。 「面白い格好……」四季は吹き出すように笑った。「いえ、ごめんなさい。とても素敵。デートだった?」  カモフラージュのために、各務はワンピースを着ていた。それに長髪の鬘《かつら》を被り、化粧も濃い。こんな場所で偶然見かけただけで、見破られたことが不思議だった。 「何故わかったのか、考えている」四季は面白そうに言う。 「ええ、考えています。同じバッグでもない、同じ靴でもない。何でしょう? どこでわかったんですか?」 「歩き方です」四季は答えた。 「私、そんなに変な歩き方をしますか?」 「人それぞれ、別々の歩き方をします。顔の表情を変えるように、仕草にも表情がある。遠くから見たときには、こちらの方がわかりやすい」 「一度見れば、だいたい見分けがつくのですか?」 「靴を履き替えると、多少違いますね。特にヒールを履くと別の歩き方になります」 「ヒールで来れば良かった」各務は微笑んだ。 「さっきの人は?」 「友達です。ええ、プライベートな」 「そう」四季は目を細める。「紹介してもらいたかったわ」 「いえ、どうか、ご勘弁下さい」 「さっき、私、向こうのカフェテリアにいたんです。近くの売店の前に警官が立っていました。その警官に女が近づいて、話をしていた。おそらく彼女も警官でしょう。すると、その二人を見て、急に歩いている方向を変えて、しかも顔を隠すようにして遠ざかるカップルを見つけたの。警官が多いのは、何かを警戒しているのか、あるいは、誰かを捜そうとしているのでしょう。一人だけならば、警官に顔を見られたくない人もいるでしょう。でも、ここは遊園地です。そんな人がわざわざ来るかしら? しかも二人、カップルで。二人とも、さっと向きを変えました。どちらかが、理由を尋ねようともしない。ですから、興味があったので、あとをつけたのです。そのうち、どこかで見た歩き方だと思った。さて……」四季は両手を広げてみせた。「もう一度おききします。彼は誰? 各務さん、貴方のボーイフレンドは、泥棒なの?」  二秒ほど沈黙があった。  各務は必死に考え、言葉を探した。四季の前では、誤魔化すことは難しい。 「彼は……、ええ、堅気の人間ではありません。しかし、ここへ来たのは、本当に単なるプライベートな……」 「いいえ、貴女のそのファッションがそれを否定しています」 「すみません」各務は一度目を瞑った。駄目だ。とても隠せない。「ええ、仕事です。彼の仕事なんです」 「泥棒なの? それとも、殺し屋かしら?」四季は可笑しそうにきいた。 「泥棒です」各務は目を開いて頷く。「彼は、私の友達で、彼が一緒に来てほしいと言ったので私も来ました。つまり、場所柄、一人よりも二人の方が目立たないと考えたので……」 「彼のことが好きなの?」 「それは……」 「嫌いだったら、そんな協力はしないでしょうね」 「ええ、はい」各務は頷いた。「この歳になって、ええ、たぶん初めてのことだと思います」 「貴女、結婚したことは?」 「あります。主人は亡くなりました」 「ああ、そう……」四季は瞬き、頷いた。「私は、貴女が好きです。貴女は、自分をよく知っている。思考が機敏で、それに感情をよくコントロールしている。良い姿勢だと思うわ。教えていただきたいことが沢山あります」 「私が? 四季様に? 何を教えるというのですか?」  四季は一度視線を逸らせる。顔をあちらへ向け、隣のベンチを見ているようだ。そちらは暗く、カップルが躰を寄せ合っていた。  花火の音がまた鳴った。生い茂った樹木のため、光は一部しか見えないが、それでも辺りは断続的に明るくなる。  各務はここへ来て、まだ一度も空を見上げていなかった。ずっとそんな人生なのだ。ゆっくりと気を休めることのない、慌ただしい毎日しか、彼女にはなかった。 「ねえ……」四季がこちらを向いた。「キスをしても良い?」 「え?」各務の躰に緊張の応力が伝播する。「どうしてですか?」 「練習っていうのは、駄目?」 「練習?」 「したことがないの」 「別に、難しいものではありません」 「どこにも、解説されていないわ」 「あ、ええ、そうでしょうね。あの……」突然、各務は思考を取り戻す。 「私が誰とここへ来たのか、とききたいのでしょう?」 「どなたといらっしゃったのですか?」 「誰だと思う?」 「新藤様ですか?」 「ええ、叔父様」四季は頷いた。「彼とキスをしたいの」 「どうして?」 「彼のことが好きだから」 「失礼ですが、それは、ご本心ですか?」 「ああ、そうね」四季はにっこりと微笑んだ。「何かの企《たくら》みだと考えたのね。私が叔父様を誘惑して、それで、彼をコントロールしようとしている、と?」 「いえ、その……、あくまでも、確認をしたかっただけです」 「妥当です。別に誘惑なんかしなくても、彼をコントロールすることは難しくありません。何でも私の言うことならばきいてくれます。でも、これだけはどうしたら良いのかしら、私、途方に暮れているのです」 「途方に暮れている? 四季様が?」 「どう言えば良いの? どうお願いすれば良いのかしら」 「いえ、思っていることをそのままおっしゃれば良いと思いますけれど。あ、でも、その……、たとえば、娘が父親に抱くような感情は……」 「ファザァ・コンプレックス?」 「いえ、やめましょう。私が説明するようなことではありません。新藤様が、心配されているのでは? お戻りになった方がよろしいと思います」 「今頃、探しているでしょうね」四季は肩を竦める。「少しは、心配してくれた方が良いわ」 「充分に心配されているものと思いますが」 「多少は、エネルギィを蓄えて、勢いをつけるべきなのです。もっと、感情の高まりのようなものが、なくてはいけない。ええ、理性を上回るようなショックも」  各務は、四季をじっと見る。この天才が口にしていることが、非常にちぐはぐに思えた。まるで子供だ。叔父への憧れを、愛情や恋心と勘違いしている。よくある話、そう、あまりにも典型。とても真面目に論じる気になれない。まさか本気ではないだろう。おそらく、遊んでいるのだ。もしかして、アルコールで酔っているのではないか。  時計を見る。既に八分経過していた。彼との約束まであと二分。 「待ち合わせているのね?」四季はそう言うと立ち上がった。「OK、解放します。また明日」  各務も立ち上がって、お辞儀をしようとした。  突然、四季が抱きついてくる。顔を寄せ、彼女は各務の唇に触れる。一瞬だった。 「こんなふう?」四季は微笑む。 「お上手ですね」各務もなんとか笑うことができた。      5  新藤清二は慌てていた。自分に対して、落ち着け、落ち着けという言葉を繰り返していたが、呼吸も鼓動も、正常ではなかった。思考も判断もままならない。カフェテリアから、離れないように、精一杯の範囲を探してみた。いつ四季が戻ってきても良いように、この場所から立ち去ることはできない。分別のない子供ではないのだ、きっと戻ってくる。  カフェテリアの店員に尋ねてみたが、誰も見ていなかった。席が屋外だったし、そもそもセルフサービスの店である。料金も前払いのため、客の様子など気にもかけていなかっただろう。  念のため、隣のテーブルにいた家族連れにも尋ねてみたが、首を振られた。  ときどき花火の閃光と爆音が辺りを包み込む。さきほどよりも、歩いている人間は少なくなっていた。  しかし、時間が経過する間に、いろいろなことを考えた。まず、誰かに連絡をした方が良いのではないか、ということ。警察だろうか、それとも、まず四季の父親か。しかし、どうしてこんな場所にいるのか、という点を追及される。どう答えたら良いだろう。  万が一の、最悪のケースも考えた。それは、誘拐だ。このところの彼女は、研究のレベルを超えて、直接的なビジネスにも関与している。そうなれば、必然的に対抗勢力にとっては大きな脅威となるだろう。  ずっとつけられていたかもしれない。  しかし、そういった場合ならば、何らかの騒ぎになりそうなものだ。誰も目撃者がいない点がおかしい。  否、そんなはずはない。それはありえない。  もう一つの可能性は、彼女自身が逃げ出した、というケースだ。そういえば、ここへ来てからずっと口数が少なかった。何か思い悩んでいたのだろうか。そもそも、ここへ連れてきてほしいと言ったのは、こういったチャンスを作るためだったのか。  しかし、それもおかしい。  いつだって逃げ出そうと思えば可能だ。ホテルから一人で出ていけば良い。簡単ではないか。  花火の音が激しくなった。  軽《かろ》やかな連続音の合間に、低い大きな爆音。  空は明るい。  そろそろフィナーレのようだ。  時計を見る。彼女が消えて既に十五分。  閉園の時間も近づいている。  電話がかけられる場所を探すことにした。売店のそばにあったはずだ。早足で引き返し、建物の中へ入った。  とにかく、まずはホテルの誰かに連絡を取ろう。手帳を見て、ボタンを押してから、誰が良いか、と新藤は考える。 「もしもし、あの、砂山さんをお願いしたいのですが」  フロントに告げて、しばらく待った。  そうだ、あの女、各務亜樹良に連絡を取ってみよう。確か、この街に来ていると、四季が話していた。      6  遊園地の入口の近くの噴水、インフォメーションの前、という約束の場所に、ロバート・スワニィは立っていた。煙草は吸えるし、花火が見られたので退屈はしなかったけれど、ネクタイにスーツでこんな場所にいる人間は周囲には一人もいなかった。もっとも、そういった環境を気にするような人物ではない。四十代後半、白人、髪は黒い。  後ろから肩を叩《たた》かれる。  振り返ると、真賀田四季が立っていた。 「ボラボ」両手を広げ、彼は仰《の》け反《ぞ》った。「信じられない。本当にこんな場所にいたんだ、ドクタ・パーフェクト」 「デートだったの」四季は微笑んだ。「彼を待たせているから、用件は短めに」 「すっかり大人になったね」 「ここまで、本当にいらっしゃったのですね。大変でしたでしょう? 慣れない土地なのに、お一人で?」 「しかし、君に来いと言われたら、誰だって来るよ」スワニィは笑った。「えっと、どこかでアルコールが飲めないかな?」 「時間がないわ。もうそろそろ閉園です」 「え、こんな時間に?」 「花火も終わりました」 「信じられない。ああ、しかたがない、とにかく、では、そこに座ろう」  彼は四季の背中を片手で押した。噴水の近くの花壇の縁石に二人は腰掛ける。 「今から、プロポーズしようか?」スワニィは真面目な表情で顔を彼女に近づける。 「誰に?」四季は首を傾げた。 「手を握らせてもらえないかな」 「駄目」四季は微笑んだまま首をふった。「触らないで」 「ここまで君に会いにきたんだよ」 「会えましたでしょう?」 「これで、終わり? これで、すべて?」 「私は、博士とは今後とも情報を交換したいと考えています。特に、博士の分野については、私はほとんど知りません」 「知ろうと思えば、たちまち知れる。そんな、君に相応《ふさわ》しいような素晴らしい情報は持ち合わせていないよ」 「おそらく、まだ印刷物になっていない、貴重なデータがあると想像します。それらが、公にならないのは、人間自身に関係しているからですね?」 「そうだね。同じ生命でも、人に近づくほど、人々は敏感になる。それが、倫理、そして、宗教という意味なんだ」 「だから、私は、博士のような最先端にいる研究者から直接学ばなければならないのです」 「つまり、本の代わりってことだね?」 「そうです」四季は頷いた。 「うんうん」彼は笑った。「良いね。素晴らしい。そういうところが、素敵だ」 「本心です」 「実直だ。うん、クールだ」スワニィは何度も小さく頷いた。「何が知りたい?」 「人の生命、そして個の尊厳のコントロールについてです」 「遺伝子か? それとも、単なる培養技術?」 「これからの数年で、計算機の能力は飛躍的に向上します。誰もが予想しているよりも、ずっと速く、そして大容量のパワーを持ちます。こうした計算能力を、必要としていますね?」 「ああ、まあそうだね。確かに、SF的な望みを持っている者はいる。私もそうかもしれない」 「お互いに得るものがあります」四季はじっと彼を見つめる。 「私には、何が得られるのかね?」彼はきいた。 「五年、お待ちになって下さい。私を信じて」 「君を信じなかったら、世の中はまったくの暗闇だろう」 「よくそういうフレーズを思いつきになりますね、何度も、女性に対して使われたのね?」 「とんでもない」彼は鼻から息をもらす。「ああ、しかし、残念だ、今夜はどうしたら良い?」 「急いでお戻りになれば、まだ充分に京都のホテルまでお帰りになれます」 「そうしよう」彼は頷いた。「ここは、ジェントルなところを見せておいて、評価値を上げてもらった方が得策だ」 「良い判断だと思いますわ」  スワニィは立ち上がった。 「せめて、その手を」彼は片手を差し出した。  四季は彼の手を握る。そして、離した。 「一つだけ質問がある」彼は自分の鼻を指で触る。「どうして、ここにいる? まさか花火を見にきたわけじゃないだろう?」彼は周囲を見回した。「それに、君、一人だけ? 君ほどの有名人が、こんなところをうろついていても大丈夫なのか、この国は」 「それは三つの質問です、博士」 「わかった」彼は片手を広げた。「退散しよう。また会おう」  スワニィはゲートの方へ歩いていく。途中で二度、振り返って、手を振った。三度目に振り返ったときには、もう彼女の姿を見つけることはできなかった。      7  各務亜樹良は自分のポケットの中で鳴る信号音を聞いて舌打ちした。確認すると、電話を寄こせという合図である。そっと隣を歩く男の顔を窺った。 「どうも今夜は邪魔が多い」彼女は溜息をついて言った。少しだけ申し訳なさそうな表情をつくってみせる。 「今夜に限ったことじゃない」彼は胸のポケットに手を入れて、煙草を取り出そうとしている。箱を掴み出し、その手で示した。「電話なら、あそこ」  各務は電話ボックスの中に入ってコインを入れた。ボタンを素早く押して待った。振り返って彼を見たかったけれど、我慢する。 「はい、砂山です」 「何? 急用?」 「ああ、各務さん。実は、さきほど新藤さんから電話がありまして、その、要領を得ない話なんですが、四季さんが行方不明だと言うんです」 「なるほど」 「何です? なるほどって」 「で、なんて?」 「どうも、彼女と二人だけでどこかへ出かけているみたいで、今、探しているところだと。それで、最悪の場合も考えて、どうしたら良いのか、各務さんに相談してくれって言うんです」 「どこにいるの?」彼女はきいた、笑いを堪《こら》えながら。 「いえ、それが言わないんですよ。ね? 手の打ちようがありませんよね。また、連絡してくるとは思いますけど……」 「わかった、対処する」各務は即答した。「誰にも知らせないように。じゃあね」 「あ、あの……」 「何?」 「各務さん、どこにいらっしゃるんです?」  電話を切った。  さて、どうしたものか。  一応戻って、確認した方が良いだろうか。否、おそらく大丈夫だ。今頃はもう、四季は新藤のところへ戻ったはず。万が一のときには、また砂山経由で連絡が入ることになるだろう。そうなったときは、そうなったとき。  よし……。  彼女は気持ちを切り換えて、電話ボックスから出た。  彼の姿を探す。どこかで煙草を吸っているのだろう。吸い殻入れのあるところか。しかし、付近には見当たらなかった。花火が終わったためか、人々は一様にゲートの方へ向かっている。ガンジス川のような緩やかさだった。立ち止まっているものは、誰もいない。近くにある建物はすべてシャッタが下りて、照明が消されていた。 「ちっきしよう」彼女は思わず言葉を吐き捨てた。      8  スワニィと別れた四季は、ゲートへ向かう大勢の流れに逆らって、遊園地の奥へ向かって歩いた。アトラクションや売店の看板が暗くなっている。もう帰らなければ、という気にさせる演出だろう。  すれ違う人々から断続的にいろいろな言葉が聞こえてきた。それらを同時に聞いて、それから組み立てられる仮説、想像できる環境を楽しんだ。しかし、それにもすぐに飽きてしまった。すぐに飽きてしまうようなことに、人間は時間を使いすぎる。しかし、これは良いことだ。執着することが善と信じられているように思える。飽きることが良い状態だという認識を持つべきではないか。  各務亜樹良のこと、それから、ロバート・スワニィの今夜の行動をシミュレートする。非常に不確定だったが、両者が対照的であることは明らかだ。各務はあの男とどこへ行くのだろう? それはきいておくべきだったかもしれない。  カフェテリアが見えてくる。そこも既に照明が消され、明かりが残る店内も、片づけ作業をしている店員の姿しかなかった。それでも、周辺にはまだ人々が大勢残っている。特に、ベンチには一組ずつのカップルが座り込んで、一様に下を向いていた。花火がなければ、夜空を見上げるような者はいないということか。  彼女の半分は、仕事をしていた。現在着手しているプログラムの基幹のデザインをどうすべきか、というよりも、どうあるべきか、についてのケーススタディを繰り返していた。のんびりとした楽しめる作業だ。二割ほどは、スワニィの分野の応用について、空想していた。遺伝子と彼は言ったが、その進化のアルゴリズムを取り入れた数値的手法も、演算速度と容量によっては将来必ず有効な手法となるだろう。少なくとも説得力はある。人間という生きものは、自分たちの進化の歴史を神のように崇拝したがるものだからだ。否、そもそも、それが神の本質かもしれない。  彼女の三割は、夜空を眺め、夏の夜の空気を感じていた。目は新藤清二を捜し、やがて、彼の姿を発見した。売店の前のステップの上に立っている。彼女がここへ戻ってくるのを待っていたのだろう。  人の目が捉える情報は非常に多いが、それをすべて処理するには、頭脳の能力が追いつかない。このため、通常は視界の僅かな部分しか印象に留まらない。頭脳の処理能力が高まれば、短時間により多くの映像情報を処理することができる。結果的に解像度が上がったことになる。  四季がものを見つける速度は通常よりかなり速い。書物の一ページを、文字も図も含めて、一、二秒で精確にスキャンし、その映像のまま記憶できる。同様に、ものが動くときの映像も、その性状のモデル化および分析も含めて、ほぼ精確に記憶・処理できる。だから、人の仕草を、人の顔と同じように、特徴的に捉えられる。顔がよく見えないような暗さと距離だったのに、そこにいるのが叔父だと、彼女にはすぐに判断できたのは、この理由による。  四季は悪戯を考えた。  彼の背後に回り、脅《おど》かしてやろう。  急に楽しくなった。こういうことは、あまり自分らしくない。だからこそ価値がある。見つからないように、手前の建物の後ろから回っていこう、と考えた。  一旦群衆の中に紛《まぎ》れ込《こ》み、建物の間を通る細い道に入った。途中に鉄柵があって「関係者以外立入禁止」と書かれたプレートが掲げられていたが、柵の横にある扉は開いていた。彼女は迷わずそこを通り抜けて、建物の裏手へ回った。  小さなトラックが一台あった。建物のシャッタは下りていたが、搬入口のようだった。木箱が積まれ、シートがかけられた荷物もある。反対側には、三メートルほどの高さのコンクリートの塀があって、その向こう側には高い樹が見えた。そちらもまだ園内のはずだ。アスファルトの細い道が真っ直ぐ奥へと続いている。関係者だけが使う道路だろう。常夜灯の明かりのため特に暗くはない。どこにも人の姿は見えなかった。  さらに奥へ入る。売店の裏側になる。建物の中を通り抜けていけば、一番効果的だが、途中にあったドアはどれも閉まっていた。二つ目の建物の手前に、細い道を見つけた。幅は二メートルほどで、コンクリートで舗装されている。両側に建物の外壁が迫り、非常階段があった。大きなゴミ箱が置かれている。途中で右に折れ曲がっているため、見通しは利かないが、表側へ出ることができるかもしれない。  彼女は、そちらへ進んだ。しかし、折れ曲がったところで先が見えた。突き当たりは、建物のドアだった。すぐ横に、荷物の載った台車が置かれていた。行き止まりだ。近づいてドアを開けようと試みたが、鍵がかかっていて開かない。上を見る。二階建ての建物の壁が三面、垂直に立ち上がり、夜空がほんの一部分だけ見えた。  喧噪《けんそう》はいつの間にか遠ざかり、静かだ。  しかも、ここはとても暗い。どの窓にも、照明は灯っていない。常夜灯の光も、ここまでは届かなかった。足許がよく見えないので、黒猫がいても気づかないだろう。  しかたがない。急いで引き返すことにした。この建物の外側を回っていこう。  非常階段を過ぎ、もとの道へ戻ろうとしたコーナ。  彼女が通り過ぎたとき、すぐ横から、何かが飛び出してきた。  それは、彼女の後ろへ素早く回り込み、彼女の躰に取りつく。  頭を後ろへ引っ張られ、首を圧迫された。  声を出すことはできなかった。  男だ。  男が、首を絞めている。  呼吸ができなくなり、眠るように静かに力が抜けていく。  彼女の大部分が驚いた。  仕事もすべて中断された。  こんなに突然のシャットダウンは非常に珍しいことだ、と彼女は思った。      9  さらに幾つかの照明が消えて、園内は一段と暗くなった。それでも、売店の前に、新藤清二は立っている。もう限界だ、と彼は考えていた。もう一度、ホテルへ電話をするか、あるいは、遊園地の関係者か、警察に事情を話すか。  女が一人近づいてくる。ジーンズのジャケットにジーパン。見覚えのある顔だった。さきほど、同じ場所で彼が話しかけた女性だ。戻ってきたところをみると、この遊園地の従業員だろうか。 「そこで、何をしているんですか?」近づいてくる女の方がさきに口をきいた。「こちらの人ですか?」 「あの……」同じ質問を新藤もしようと思っていたのだ。 「ああ、そういえば、貴方……」近くまで来て、顔がわかったのだろう、彼女は気づいたようだ。「もしかして、あのときから、ずっとここで?」そう言って腕時計を見る。 「もう、三十分、いえ、四十分になりますね。娘さん、まだ見つからないのですか?」 「あれ? どうしてそれを?」新藤は驚いた。その話は彼女にはしていないはずだ。 「私は警察の者です。事情は聞いています」 「なんだ、そうだったんですか。それじゃあ、話は早い、とにかく、その……、あそこのカフェテリアにいたんですが、私が数分離れた間に消えてしまったんです。警官にお願いしたんですよ、ちゃんと見ていてくれって……。警察にも責任がある」 「失礼ですが、勝手に帰られたということは?」 「それはない」新藤は首をふった。 「そうですか? うーん、けっこうそういうことって、ありそうに思いますけれど」彼女は少し笑ったような口振りだった。暗いので表情はよくはわからない。 「勘違いをされているようだ」新藤清二は溜息をついてから、意識してゆっくりとした口調で話した。「私は、新藤という者です。一緒だったのは、私の姪で、名前は、真賀田四季」 「真賀田四季?」彼女の声が高くなる。 「そうです。私は彼女の保護者です。非公式にですが、二人だけで、ここへ来ていた。彼女が急に来たいと言ったんです」 「ちょ、ちょっと待って下さい」女は一度振り返った。カフェテリアの方を見たようだ。もちろん、もう人気《ひとけ》はない。 「どうかしましたか?」遠くから別の声が聞こえた。  男が近づいてくる。かなり近くへ来るまで、制服の警官だとわからなかった。彼は、女の方を見て、片手を上げる。敬礼のようだ。 「何か、お心当たりがありますか?」女は多少口調を改めて尋ねた。「あの、申し遅れました。私は県警の祖父江といいます。一応、こちらでの警備の責任者です」  女性であること、それに若そうに見えたことから、責任者という言葉には新藤も少し驚いた。 「何もありません」彼は答える。「まったくわからない。黙ってどこかへ行くとは思えない。たとえ、私に対する悪戯だったとしても、これでは時間が長すぎる。私を置いて、一人で帰るとは思えない。彼女、お金を持っていないんじゃないかな」 「では、誰か、知り合いに会った、とか?」 「さっき、ホテルに電話はしてみました。もう一度かけてみましょう」 「そうして下さい。あちらに電話ボックスがあります」  既に、売店の建物は施錠されているようだ。中の電話は使えない。  新藤と祖父江、それに警官の三人は、電話ボックスのある広場の方へ向かった。途中、カフェテリアの前を通りかかる。 「どのテーブルでした?」祖父江が質問した。 「そこの……」彼は歩きながら指をさす。  その丸いテーブルの横、斜めに引かれたままの白い椅子の上に、黒いものがのっているのに気づいた。それは間違いなく四季が座っていた椅子である。  三人はそちらへ近づいた。  椅子の上にあったのは、靴だった。女性用の片方の靴だ。軽そうな浅い形状のものである。 「彼女の靴だ」新藤はそれを確信した。  タクシーの中で、それを見た。四季の膝、組まれた脚、そして、この靴を、確かに覚えていた。 「間違いありませんか?」 「間違いない。あ……」新藤は、その靴の中に白い紙が入っているのに気づいた。彼はそれに手を伸ばす。 「触らないで下さい」祖父江がそれを制した。  彼女はポケットから手袋を取り出し、それを両手にはめる。そして、靴の中から名刺くらいの大きさの紙を摘《つま》み出《だ》した。厚紙で、片面には色が印刷され、もう片面は灰色っぽい。何かの箱の一部をちぎったものだろうか。その灰色の面に小さな文字が書かれていた。  常夜灯の光を求め、明るい方向へそれを向けて読んだ。    ようきゅうはのちほどこちらからする。  ボールペンで書かれた文字のようだ。字体は楷書に近い。横書きで比較的整った文字だった。  新藤は言葉が出ない。急に体中が締めつけられるような、重さを感じた。頭は混乱し、目は空、周囲、地面と彷徨《さまよ》った。 「本部に連絡を。それから、入口へも連絡して、不審な人物を通さないように」祖父江は警官に命じている。「国道と高速道路に非常線を張るように。すぐに、誰かをこちらへ寄こして」 「ここへですか?」 「私はここにいるから」 「わかりました」警官は頷き、駈けだしていった。  膝の力が抜け、今にも地面に崩れ落ちそうな気分で、新藤清二はどうにか立っていた。額に片手を当て、指を髪に押しつける。吐く息は喉を震わせ、乾いた唇を擦った。  とにかく、四季が無事であることを祈る以外にない。  しかし、何に祈れば良いだろう。  人類の中で最も神に近いのが彼女なのだ。この卑劣な行為に及んだ人間は、それを知っているだろうか? 自分のやっていることの重大さを認識しているだろうか?  そう考えてみたところで、溜息は止まらない。 [#改ページ] 第3章 祈りと腐心は似ている [#ここから5字下げ] ところが、一度その言葉の開かれるのを目にし、その内部に踏み入った者なら、まず第一に、他に言葉はたくさんあるだろうが、ただただ彼の言論だけが、内に知性をもったものであること、さらに、神の言葉にも近いものであること、徳の無数の像《すがた》を内に孕《はら》んでいること、また、すぐれた人物になろうとする者なら、考察すべき大部分のことがら、いな、むしろ一切のことがらに、その視野のおよんでいることを、知るだろうと思う。 [#ここで字下げ終わり]      1  その男は、人の行動の裏をかくこと、あるいは、ほんの僅かな隙をつくことにかけて天性の素質を持っていた。電車で乗り合わせた見ず知らずの人の手からちょっとした拍子に滑り落ちそうになったものを軽く受け止めたり、デパートの女店員が棚から下ろそうというとき、積み重ねられた靴箱が崩れるより僅かに早い瞬間に、そっと片手を差し出すことができた。何でもないことのように思えるかもしれないが、その動作が極めてスムースで静かだったことは驚嘆すべきだろう。動きが速いのではない、判断が機敏なのである。  攻撃は最大の防御という言葉があるが、相手が防御しようと構えている場合には、そうそう簡単に有効な攻撃をすることはできない。むしろ相手が攻撃に転じるその一瞬に、隙が見出される。ボクシングでいうところのカウンタである。それは、エンジンのピストンのように、動きが反転するところで、一瞬静止することを想像すれば理屈は簡単だ、と彼は考えていた。この男は、こういった不思議な理屈を幾つも持っている。類似する現象を見つけ、それによって理屈を作る。信じることを、正しいことに塗り替える。それが彼の手法なのだ。  警察の警戒は予想以上に厳しかった。  どう考えても、無駄骨に終わる確率が高いものに、よくもこれだけのエネルギィをかけたものである。つまり、それだけ、警察を焦《あせ》らせる緊迫した事情があるということだ。考えられるのは、マスコミがこの一連の窃盗の関連に気づいた、それが遠からず世間に知れ渡る、という危機感くらいだろう。  もしそうなら、それは彼にとってもありがたい話ではない。なるべく目立たないように仕事をしていたつもりだが、ついつい億劫《おっくう》なので、近場で働いてしまう。手口も工夫して変えているつもりなのだが、盗み出すものは明らかに同じ趣味の品ばかりだ。  こうなると、そろそろまた場所を変える時期かもしれない、とこの男は考えた。彼の場合、スリルを味わうことに重要な意味はない。また、生活に困っているわけでもない。あえていうならば、単に趣味的な活動であったし、価値のあるものが、その価値を理解している者、価値を知っている者の近くに置かれるべきだという、ごく自然な方針に従って、慎ましいほど遠慮がちに位置を修正しているに過ぎない。  しかし、警察も同じことを考えただろう。これだけの警備をしていれば、たとえ近くまでやってきたところで、今夜は無理だ、と出直すにちがいない。考え直すか、少なくとも、もう少し様子を見るために一旦は引き下がるに決まっている。それは、彼自身がつい三十分まえに考えたことと一致していた。  ところが、まったく予期しない事態に遭遇した。無関係のファクタである。真賀田四季がここに、こんなところにいたのだ。もちろん、実物を直接見たのは初めてのことで、テレビで見る印象をかなり修正する必要があった。おそらく、テレビの映像はフィルタがかけられ、デフォルメされた結果なのだろう。実物はもっと普通の少女だった。年齢よりは大人に見えるが、華奢《きゃしゃ》な肢体の色白の女性、振り返って見ることはあっても、誰も彼女が、あの天才少女だとは気づかないのではないか。そう、美人というのは、意外に顔に特徴がない。帽子を被っていたり、メガネをかけたり、髪型が変われば、もう識別が難しくなる。顔の特徴というのは、つまり、通常は目立つ欠陥に依存している、といえるだろう。欠陥のないものには特徴がないという理屈である。  彼の友人であり、この業界では頼りになる取引先、ようするにお得意さんである組織の窓口的役割というべき各務亜樹良が、真賀田四季と知り合いだったという事実も、今夜の大きな収穫だった。各務亜樹良という女性は、まったく得体の知れない人物で、どんな仕事、どんな生活をしているのか、また、その生い立ちはどんなふうだったのか、まったくわからない。そのくせ、最近はお節介といって良いほど、彼に接近してくる。何か魂胆《こんたん》があるものと警戒しているのだが、実のところ、どんな魂胆があっても、そういった状況を一時的に忘れてしまうくらいに、彼女に溺《おぼ》れそうになることもまたしばしばだった。まるで、底なし沼のように。  今夜は、その底なし沼の冒険を潔《いさぎよ》く切り捨て、一方では、無関係のファクタをこちらへ引き込むことで、一瞬のカウンタ、そのチャンスが到来することに思い至った。計画は一瞬で成立。こういったインスピレーションを、この男は何よりも崇拝しているのだ。  すぐに行動に移した。  そして、あっさりと仕事の大半は終わってしまった。  あっけない。  成功するときというのは、こんなものだ。苦労がないとありがたみがない、などとは贅沢《ぜいたく》というもの。  警察は、真賀田四季が誘拐されたことに気づき、最初の五分間に動揺が走った。持ち場を離れる者が多く、命令は乱れた。十分後には、態勢を整え、警備を続行するグループと、四季の捜索を開始するグループに分かれた。そのときには、既に彼はイベント館のホールの中にいた。彼は作業服を着ていたので、見つかれば、遊園地の関係者だと主張するつもりだった。清掃をしている人間が、少し離れた事務所の方で仕事をしていたからだ。  警官たちは、出入口を固めているが、中へは入ってこない。ものを盗み出すという行為を理解していないから、ああいった警備のし方になる。入ってしまえば、出るときは、どこからでも出られる。なければ、出口を作れば良い。あるいは、明日の朝までここにいる手もある。  まず、身を隠す場所を幾つか確保した。思ったとおりの場所にスタッフの控室があった。施錠されていたが、そこを開けて中に入った。鍵をかけていれば朝までは安心である。ロッカもあった。ちょっとした工具も見つかった。幸運は一ヵ所に偏《かたよ》っているものだ。  今回の目的物は、小さな習作のスケッチ。キャンバスに描かれたものではない。スケッチブックに木炭と数色の水彩で描かれた簡素なものだ。それが五点。警察に一つだけハンディがあるとすれば、それは、どの作品が盗まれるのかを知らない点だろう。こちらは、それを知っている。この優位さは捨てがたい。  高価な油絵には、センサが取り付けられているものがあった。振動で反応するもののようだ。最近では盗難車対策で普及している製品で、高価なものではない。コードを切ると逆に警報が鳴る仕掛けのものもある。そういう場合には、コードに針を刺して、電流をチェックする必要があるのだが、今夜はそんな小道具は持ってきてない。もちろん、図鑑で見ることができるその種の有名どころには、彼はまったく興味がなかった。  ガラスケースの中に目的物はある。昼間に入場料を払って観にきたので、様子はすっかりわかっていた。ガラスケースには鍵がかけられているが、センサの類はない。ガラスを切るか、それとも桟のアルミをバーナで溶かすか、とそのときは考えた。後ろに回ってみると、蝶番《ちょうつがい》の木ネジが外側にあった。馬鹿みたいな作りである。どうやら、この会場の備品らしい。正式の美術館では、こんな安物は使わない。  したがって、何も準備をしなくても良かった。だからこそ、今夜、急遽《きゅうきょ》これを強行することに決めたのである。これはもう幸運の女神が微笑んでいるうちに片づけなくてはならない、そんな使命感に近いものだった。  ポケットから取り出した部品で、プラスのドライバを組み立て、ガラスケースの蝶番のネジを外した。全部で八つ。二分とかからなかった。これならば、綺麗に元どおり戻しておけるだろう。上部を少しずらす。思ったほど重くなかった。ガラスが薄いためだろう。ずらしてできた隙間に下から腕を入れて、目的物を取り出した。隣に置かれている品々の位置を少しずつずらして、スペースに均等に並ぶようにレイアウトを修正した。途中で上部のずらし方を二度ほど変更する必要があった。その作業に十分。最後は蝶番にネジを差し入れ、元どおりに締め直した。ガラスケースの中は多少間が抜けた配置になったものの、一見何がなくなったのかはわかりにくい。こういった後処理が、この仕事では重要なのだ。  スケッチブックは、持ってきたプラスティックのケースに入れて、背中とシャツの間に保持した。これをするたびに、姿勢が良くなるのが楽しみである。  一仕事終えて、煙草が吸いたくなったけれど、まだ我慢が必要だ。ここへ入ってまだ二十分しか経っていない。ひとまず控室に引っ込み、鍵をかける。  窓はない。このホールは天井が高く、仕切壁はすべて可動式のパーティションだった。壁はどれも天井には届いていない。照明をつければ、周囲に光が漏れるだろう。  コンセントのためのコードも天井から下りてきていた。彼は天井を見る。暗くてしっかりとは見えなかったが、格子の上にまだスペースがあるようだ。控室のほぼ真上にも、出入りのための穴が開いている。どうすれば、あそこまで上がれるだろう、と彼は考えた。      2  祖父江七夏は、ゲートの外の駐車場に立っていた。本部からの応援が続々と到着している。時刻はもうすぐ十時。真賀田四季の誘拐が確認されてから一時間二十分が経過していた。閉園時刻は八時半、しかし、遊園地内から一般客がすべて出るのに一時間近くかかった。駐車場にはまだ来園者の車が残っている。この近くで遊んでいるのか、あるいは、物々しい警察の車に対する興味から居残っているのか、いずれかであろう。  見慣れたシトロエンが七夏の近くまでやってきて停まる。運転席のドアが開いて林《はやし》が降りてきた。彼女の上司、愛知県警の警部である。  七夏は敬礼をする。 「暑いなぁ」ネクタイに手をやり林は空を見た。「何か進展は?」 「ありません」彼女は報告する。「もう園内にはいないでしょう。一応、近所の主要な道路では検問をしていますが、今のところ連絡はありません」  林は腕時計を見た。長袖のシャツの袖を折り返していた。 「その真賀田四季の叔父さん? その人は?」 「向こうの事務所に。それから、父親は那古野のホテルにいます。そちらにも、何も連絡はないようです」 「おかしいな」林は呟いた。 「何がですか?」 「どうやって車に乗せた?」 「え? 犯人が彼女を、ということですか?」 「そう……」 「車は駐車場です。人に気づかれないように、ピストルか、ナイフで脅して、歩かせたんだと思いますが」 「片方、裸足《はだし》でか?」 「あ、ええ、そうなりますね」七夏は頷いた。確かに、それは考えなかった。例のカフェテリアに残されていた靴が、四季本人のものに間違いないか、まだ確定はできていない。 「靴を履いていなかったら、目立つだろう?」 「しかし、夜ですし、人混みですからね。誰も、そんなところまでは見ていないかも」 「見ていないかどうかじゃない。犯人が、どう考えるかだ」林は煙草を取り出して火をつけた。「普通は心配する。縛り上げて担いで歩くわけにもいかない。どこか別の出口から出ていったんじゃないか? 業者の出入口があるだろう?」 「そちらは、展覧会の警備の関係で、しっかりと固めていました。まず可能性はありません」 「靴の中にメッセージがあったって?」 「そうです」 「持っているか?」  七夏はポケットからビニル袋を取り出し、彼に手渡した。  林はそれを持って、明るい場所へ移動する。七夏も彼のあとをついて歩いた。 「お菓子の箱かな?」林は呟いた。 「ええ、たぶん」彼女は頷く。その紙切れのことである。 「ゴミ箱の中にでもあったんだろうな」彼はビニル袋を七夏に返し、口にくわえていた煙草を手に持った。「急に思いついたことだ。遊園地に来てから、メッセージを書くことを思いついた」 「断定できますか?」 「断定できることなんて、学校のテストくらいだ」林は口を斜めにする。「美術館は?」 「え?」 「美術品の展示会」林は煙を吐いた。「もともと、そっちの警備で来ていたんだろう?」 「ああ、はい……、でも、もうそれどころではありません。既に、イベント館の方は閉まっているはずです。もちろん、そちらの警戒も続けていますが」 「何人で?」 「えっと、六人です」 「昼間は、何人でやっていたんだ?」 「昼間は、そうですね……、半数はその建物の中か周辺にいましたから」七夏は意味もなく夜空を見上げた。「二十人以上かな」 「よし、そこへ行こう」林は歩き始める。 「あ、ちょっと、警部」七夏は慌てて彼を追った。「どうしてですか? 何か手落ちが?」 「真賀田四季は、おそらく近くのどこかで拘束されているだろう。単なる目くらましだ」 「目くらまし?」 「猫騙し」林は横目で七夏を見た。「誘拐を成功させたいのなら、メッセージや靴なんて残していかない。靴がなかったら、歩かせることもできないだろう。つまり、歩かせてはいない。遠くへは行っていない。まだ園内かもしれない。そっちはどうだっていいってことだ。どうして、そんなことをわざわざしたと思う?」 「そんなことって……、靴を片方置いていったことですか?」 「そうだ。あとで電話をかけてくれば済むことだ」 「こちらを動揺させようと……」 「動揺してもらっては困る、家族には冷静に対処してもらいたい、それが誘拐犯の気持ちだ。要求があるならば、だがね。誘拐に見せかけて、殺人が目的ならば、ますます、安全な場所へ移動するまで知らせたりはしないだろう」 「早く誘拐だと気づいてほしかった」 「そういうこと。つまり、小石を投げたわけだ」 「警察に向かって?」 「目的は、美術展の方だ。間違いない」 「え? では、奴がやったってことですか? でも、なんか、似合わなくないですか? そんな卑劣な真似をするでしょうか?」 「何が卑劣で、何が正義なのか、そんなことは奴の知ったことじゃないよ。そういったことに影響を受けない人間だ」歩きながら林は言った。「おそらく、もう仕事は終わっているな」 「そんな」七夏は急に心配になった。 「こういった勘は、外れてくれたらって、いつも思うんだがね」林は七夏を見据えて頷いた。「外れたためしがない」      3  林と七夏がイベント館に到着したその二十分まえに、彼らが「奴」と呼んでいた男はその建物から逃げ出していた。  控室のデスクの上からロッカの上に乗り、そこに立って手を伸ばすと、天井のハッチまであと一メートルほど足りなかった。そこで、ロッカの鍵をこじ開け、中にあったベルトを二本|繋《つな》ぎ合わせ、同じくそこにあった傘で誘導して、天井のダクトを吊っている金具にベルトを通した。その長い吊革を利用して、彼は天井の配管スペースによじ登ることができた。下から見ると、暗くてわからなかったが、粗い編み目の金網の上に、高さにして一・五メートルほどの空間があった。ハッチは、方々にあって、照明を調整するために、人が通る通路が設置されている。上はコンクリートのスラブ。ときどき、太い梁《はり》が通っているが、その下も四十センチくらい隙間があって、どうにか通り抜けることができた。  警官が立っている出口とは反対の方向へ行き、トイレの手前の階段に降りた。二階へ上がり、窓の一つを開けて屋外に出る。二メートルほど下がったところにコンクリートの庇《ひさし》が突き出していたので、そこへ飛び降り、あとは雨樋《あまどい》と窓の枠を足がかりにして、地面まで辿り着いた。建物の側面である。  ちょうど植物が目隠しになって、しばらく辺りの様子を窺うのに適した場所だった。警官の警備は正面の玄関付近だけで、辺りを巡回している様子もない。彼は暗い場所を探し、そこを目指して出ていった。障害物が多く、隠れて移動するにはもってこいの場所だった。  あとは、この遊園地からの脱出になるが、それはあまり焦らない方が良い。時間が経てば経つほど、探す側は諦める。もうとっくに出ていってしまったと考えるからだ。トイレでも、倉庫でも、売店の中でも、鍵を開けて中に隠れていれば、翌日には、ずっと安全に入園者に紛れることができるはずである。  しかし、どれくらいの警察がいるのか。  昼間にいたのは五十人くらいだろう。今はそれよりは多い。倍はいるだろうか。しかし、園内には、まだ従業員が残っているはずで、警察よりはずっと数が多い。どこかに集まっているのかもしれないが、その中に紛れ込む手もある。  自然に足は奥へ向いた。正面ほど通りにくい場所はない。敵の裏をかいて、正面ゲートから出ていく戦法もあるが、そんなリスクをかけるほど追い込まれた状況でもなかった。  彼女を捕まえた建物の近くまで戻ってきた。カフェテリアの前には、既に誰もいない。警察が何人かいると想像していたが、鑑識がまだ到着していないためか。  裏手へ回り、慎重に周辺を窺った。駐車されていたトラックがまだそのままそこにあった。警官がきっと窓の中を覗き込んだだろう。  そのまま立ち去ろうと考えた。  そういう自分の声を確かに聞いた。  しかし、彼は、アスファルトの上に落ちた自分の影を見ながら、ドアまで歩いた。シャッタの横にある小さなドアだ。鍵は開いている。彼がこじ開けた鍵だった。  音を立てないようにこっそりと中へ入った。万が一ということもある。ドアの近くでしばらくじっと待ち、気配を確かめた。上を見る。吹き抜けの高い天井にクレーンがあった。トラックがここへ入り、荷物を降ろすスペースなのだ。五分ほどじっと動かなかった。  それから、静かにドアに鍵をかけ、右手へ移動する。  大きな段ボール箱が積まれているその間に入り、またしばらく時間を消費した。こうした用心深さは、自分でも呆れるほどだ。とにかく、懇切丁寧に可能なかぎり時間をかける。時間の神様が痺《しび》れを切らすまで。  外で足跡が聞こえた。警官だろう。  一瞬磨りガラスに光が当たった。ライトをこちらへ向けたようだ。ドアの鍵を開けないことを祈る。足音が一度止まった。ドアを開けようとする力が、シャッタを微動させ音を立てた。しかし、ドアは開かなかった。足音は移動し、また立ち止まった。トラックの前かもしれない。幸い、足音はそのまま遠ざかっていった。  ようやく彼は立ち上がり、段ボール箱の隙間から出た。そして、奥の事務所の方へ歩く。パーティションで仕切られたスペースが奥の一角にある。ドアもついていた。照明が灯っている。中にはデスク、テーブル、椅子が置かれ、壁際には水道、シンク、小さなコンロもある。従業員が弁当でも食べるのだろう。金色の薬缶《やかん》があった。  奥の壁には、日にちが書かれた大きな黒板、カレンダ、ボスタ、時計。そして、床には段ボール箱が不自然な形で、つまり直方体ではなく歪んだ形になって、置かれていた。彼が置いたものだった。  どうして、自分はここへ戻ったのか、と彼は思う。  振り返ってシャッタを見る。その入口から今、鍵を開けて警官が入ってきたら、その事態は非常に危険だ。自分は袋小路にいる。この奥をまだ確かめていなかったが、建物の中へ逃げ込んでも、出口は限られているだろう。  しかし、どういうわけか、こういうシチュエーションになるほど、彼の心臓は安定して血液を送り続ける。こういったリスクが、まるで新鮮な空気の代用品(しかも濃縮タイプの)に感じられるほどだ。  段ボール箱を取り去る。そこに真賀田四季が倒れている。  彼女は目を開いていた。  腕と足を縛り、口はタオルで締め上げてあった。  彼は、四季の頭の後ろへ手を回し、そのタオルを解こうとした。彼女は横を向いて、彼の作業をやりやすくする。 「声を出さないでくれ。何もしない」彼は小声で囁いた。  四季は横目で彼を見て、小さく頷いた。  彼はそれを解く。  四季は深呼吸するように息をした。 「悪かった。君には何の恨みもない。あとは、僕がここから出ていっておしまい。すべて忘れてほしいけれど、そうはいかないだろうね」 「何を盗んだの?」四季はきいた。 「さあ、何だろう」彼は微笑んだ。「できれば、僕が出ていっても、しばらく、大声を出さないでほしい。出しても、よほど近くに警官がいないかぎり声は届かない。むしろ、僕を苛《いら》つかせて、君を黙らせようと戻ってくる確率の方が高い」 「各務さんのお友達でしょう?」 「え?」彼は少し驚いた。「何のことかな」 「大丈夫、貴方のことは誰にも話しません。各務さんにも黙っていましょう」四季は微笑んだ。こんな状況下で普通にできる笑顔ではない。手足を縛られていること以外は、まるでたった今、昼寝から目覚めたようなリラックスした雰囲気だった。否、それどころか、逆に、彼女は何かを楽しんでいるふうにも見えた。  彼は、この少女が恐くなった。理由はよくわからないが、本能的なものだっただろう。早くここから出ようと決心した。 「私のことが恐くなった」彼女は目を細めて言った。「早くここを離れよう、と思った」 「あまり詮索すると、君の危険は大きくなる。僕としては、顔を見られているわけだから、本当なら君を殺してしまいたいところだ」 「それならば、最初に殺しているわ。そのときが一番簡単だった。いろいろな手間が省ける。それなのに、私のために無駄で危険な時間を使っている。どうしてわざわざ戻ってきたの? 合理的な行動とは思えないわ。貴方、冷静そうだけれど、どこか破滅的な部分があるわね。そこが魅力的なのかしら? 各務さんのことが好き?」 「こんなにおしゃべりのお嬢さんだったとはね。起きられる?」  彼は四季に手を貸して彼女の躰を起こした。床に座り、足を横に曲げた格好になる。 「ねえ、これを解いてもらえないかしら」躰を捻《ひね》って、彼女は背中にある手を見せようとした。「今から、私、貴方についていくわ。一緒にどこかへ連れていって」  彼は一度吹き出し、しばらくものが言えなかった。 「魅力的なお誘いだけれど、残念ながら先約があってね」 「各務さんでしょう?」 「いや、違う」 「そう……」四季は一度下を向いた。あまり表情は変わらない。「もしかして、私のことを、本当に怪物みたいに思っているのね? 人の気持ちが読めるのは、超自然的な能力ではなく、単なる観察と統計的な処理による推測です」 「ああ、それは、わかるよ」 「でも、恐い?」 「うん、難しい質問だ。確かに、正直言って、少し恐い」彼は答えた。「だけど……、さっきよりは慣れた」彼は微笑む。「こんなところではなくて、こんな状況ではなくて、僕も普通の男で、君も普通の女の子だったら、ずっと楽しかっただろうね」 「私は今も楽しいわ」 「どうして、一緒に行きたい? 僕が立ち去ったあとは、もう自由なんだから、自分でどこへでも行けるだろう?」 「貴方に教えてもらいたいことがあるの」 「何?」 「口では言えないわ」  彼はまた吹き出した。 「だんだん楽しくなってきた。まずいなぁ」 「貴方、とても変わっている。そう言われるでしょう?」 「言われるよ」 「さすがに、各務さんが選んだだけのことはあるわ」 「今度はお世辞作戦?」 「私、好きな人がいて、彼に何をしてあげれば良いのかわからないの。それを貴方に教えてもらいたい。各務さんでも良かった、彼女にきこうとしたこともあるわ」 「ああ……」彼は口を開けたまま頷いた。「そういうことね、なるほど。確かに、誰も教えてくれない」 「本にも書かれていない」 「図書館にある本にはね」 「ねえ、おじさん、お歳はいくつ?」 「おじさん?」 「ごめんなさい、おにいさん」 「君はいくつ? 十六?」 「十三」 「十三?」彼は天井を見た。「ああ、もう駄目だ。こんなことしていられない。もう遅いから帰りな」 「失礼ね。どうやって帰るの? まだ縛られています」 「だから、それは解いてあげるから、うん、もう今夜はおしまい」 「ねえ、いくつ?」 「君の好きだっていう人は、いくつなんだい?」 「三十六歳」 「え? 三十六? どうしてそんなおじさんを」 「貴方はもっと若い?」 「悪いことは言わない。それは騙されているんだ。断言できる」 「何故?」 「どうしても」  四季はくすっと笑った。 「少なくとも、そいつよりは、まだ僕の方がましだ」彼は笑いながら言った。 「断言できる?」 「ああ」 「ねえ、事情はわかったでしょう? こんな目に遭わせたのだから、お願い、今夜、私に教えて。それくらいのことしてくれても良いと思わない?」 「ああ、困ったなあ」 「じゃないと、貴方のことを警察に話すわ」 「警察はね、僕のことを薄々は知っているんだ。今さら、そんな証拠なんて関係ない」 「顔は知られているのね? 今のそれ、変装しているの?」 「今度会っても、たぶん気づかないだろうね」 「いいえ、わかるわ」 「会わないようにするよ」 「それでも、私を襲った罪は重大だと思う。私の言うことをきいてくれたら、何もなかったことにします。少し喉が渇いただけ、ここで横になっている間に、なかなか良い仕事ができたわ」 「仕事?」 「いえ、いいの」 「とにかく、捕まってしまえば、どんな罪でも同じだ。何もかも警察にしゃべってもらってもかまわない。その覚悟はできている」 「ごめんなさい。全部撤回します。怒ったのね? もちろん、黙っているわ。貴方が気に入りました」 「今日の仕事で、最後にするつもりなんだ。遠くへ行こうと思っている」 「どうして、そんなことを私に話すの?」 「うん……、どうしてだろう」      4  イベント館のホールをざっと見回ったが異状はなかった。壁にかけられた絵画はすべて揃っている。展示ケースにも異状はない。鍵がかかっている控室が多少気になったが、その中に貴重なものがあるとも思えなかった。係員のロッカがある程度だろう。周囲はいずれもパーティション。逃げ道はない。  林は上を見上げた。美術館にはない天井の設備だった。多目的なイベントに対応するため、照明などの機器が架設できる構造になっているようだ。 「勘が外れましたね」七夏が言った。 「いや、絵以外に何か目的があるのかもしれない。関係者に連絡して、確認してくれ」 「わかりました」七夏は頷く。彼女は近くの警官を呼んで指示を与えた。 「ちょっと外を見てくる」林は出ていく。 「あ、私も行きます」七夏が後を追った。 「いや、君はここにいた方が良い」林は歩きながら振り返って言う。  外に出て、林はアスファルトの上を歩いた。まだ暖かそうな、柔らかそうなアスファルトだった。左右を見て、奥へ向かうことにする。自分が逃げる立場だったら、どちらへ行くか。正面ゲートの方角が明るかった。単にそう考えた結果である。  後ろから、七夏が追いかけてくるヒールの音が聞こえそうな気がしたが、もちろんそんなことはない。ときどきこういった想像をして自分でも可笑《おか》しくなる。頭がそろそろ腐り始めている証拠だろう。  電話ボックスがあった。後ろを振り返り、そして、周囲を見回してから、その中に入った。  ポケットの中に手を突っ込み、十円玉を探したがなかった。しかたがないので百円玉を入れる。相手のナンバを押して、しばらく待った。  ベルが鳴る。 「もしもし、瀬在丸です」 「僕だ」 「林さん」 「すまない、急な用件でね、今まで連絡できなかった」 「ええ、だと思いました。気になさらないで」 「君さえ良かったら、また、明日にでも、延期してもらえないかな」 「私は、いつでもフリーです。どんな事件ですか?」 「あ、うん、君は知らないと思うけれど、真賀田四季っていう天才少女が、ちょうど今、那古野に来ているんだ」 「ああ、ええ、知っていますよ。今日、私、彼女に会ったわ」 「え? どこで?」 「N大」 「N大のどこで?」 「図書館。私に、わざわざ会いにきたみたいでした」 「何故?」 「うーん、何故かしら。仲間に引き入れたかったようだけれど」 「君を?」 「ええ」 「何の仲間だ? 天才のクラブでもあるのか?」 「あまり上品なジョークじゃありませんね、それ。ねえ、真賀田さんが、どうかしたの?」 「あ、うん、内緒だが、ちょっと、その、誘拐されたかもしれない」 「え? いつ? ホテルで? 何か要求が?」 「記者会見をしたいわけじゃない。約束をすっぽかした理由を知ってもらいたかっただけだ」 「ああ、でも、心配だわ」 「いや、大丈夫だと思う」 「どうして?」 「なんとなく」林はそう言いながら、振り返った。  ガラス越しに、少女が歩いているのが見えた。歩き方がぎこちない。怪我をしているのだろうか。 「悪い。彼女が帰ってきた」 「え、誰が?」  林は受話器を戻し、慌てて電話ボックスから飛び出した。  ほっそりとした色白の少女だ。日本人離れした風貌で、特に、こんな暗い場所で出会うと、この世のものとは思えない雰囲気があった。 「真賀田四季さん?」林は近づいていって尋ねた。 「はい。警察の方ですか?」彼女は無表情で答える。  短いスカートから伸びた白い脚。靴を片方だけに履いている。もう片方は裸足だった。歩きにくそうにしていたのは、そのためだ。 「愛知県警の者です。大丈夫ですか? 貴女を捜していました。どちらにいらっしゃったのですか?」 「あちらの、建物の裏です。ちょっと、その、隠れていただけです」 「隠れていた? どうして?」 「叔父様は? 新藤といいます」四季はきいた。  彼女はまったくの無表情で、茫洋とした、夢を見ているような顔つきに見えた。 「はい、事務所の方にいらっしゃるはずです」  四季はゆっくりと歩き始めようとする。 「ちょっと待って」林は止めた。「何かを踏んで怪我をするといけない。どうしよう。僕の靴を履きますか? 僕は靴下を穿いているから、裸足でも大丈夫です。駄目ですか? ちょっと大きいかな」 「おんぶして下されば良いわ」 「ああ、なるほど。わかりました」  四季の前で林は少し膝を曲げる。彼女の体重が背中にかかった。意外なほど軽い。 「初めて」背中で四季が言った。 「おんぶが?」 「ええ」 「赤ちゃんのときに、してもらっていますよ」 「いいえ。一度も」 「覚えていないだけです」 「私は全部覚えています」  その意味をしばらく考えながら林は歩いた。イベント館まで、三百メートルくらいある。 「もう一度お伺いしますが、貴女一人で隠れていたのですか?」林はきいた。「誰かに捕まって、無理矢理閉し込められていたとか?」 「いいえ。考えごとをしていたら、眠くなってしまって、開いているドアがあったので、入ったら、そこに椅子があったの。それで、そこで眠っていました。二時間くらいかしら。叔父様を心配させてしまいました。反省しています」 「靴はどうしました? どうして片方ないのですか?」 「わかりません。寝ているうちに誰かに盗まれたのね」 「誰でしょう、そんなことをするのは」 「たぶん、ここの従業員の誰かでしょう。私が上がり込んで寝ていたから、悪戯をしたのだと思うわ」  少し明るい場所に来た。林は彼の胸の前にある四季の腕を見た。手首に赤い痕《あと》が残っている。明らかに縛られていた痕跡だ。何故、彼女は嘘をついているのだろう。 「私の手首の痕を見て、嘘だと思った」四季がすぐ後ろで囁いた。「私が犯人を匿《かくま》っていると考えているのね?」 「そうです」林は正直に答えた。「何か、交渉があったとみるべきですか?」 「この手首の痕は、自分でつけたものです。ときどき、こうやって遊ぶの。変わっているでしょう?」 「足も縛るんですか?」 「そう」 「靴を脱ぎ捨てるのも、趣味で?」 「そうです。何ていうのかしら、自虐的な遊びですね」 「では……」林は少し間をおいた。「貴女の靴の中に、誘拐を示唆するメッセージが入っていたのはどうしてですか?」 「え?」 「そのメッセージの文句は?」  四季は黙った。  数秒間、林の足音と、虫の声だけ。  生暖かい空気は、ほとんど動いていない。 「そんな馬鹿なことをしたんだ」四季は小声で言った。可笑しそうな声、笑っているようだった。 「誰が、その馬鹿なことをしました? 貴女を縛った奴です。話をしたでしょう?」 「貴方、お名前は?」 「犀川といいます」林は答える。 「斉藤《さいとう》の斉? 西?」 「いいえ、動物の犀です」 「位は? 警視? お歳は?」 「警部です。歳はえっと……、今年で四十四かな」 「ありがとう。素敵だわ」 「僕の質問にも答えてほしいですね」 「彼と話はしました。でも、残念ながら、歳は教えてもらえなかった。三十代の前半」 「名前は?」 「名前も、駄目」林の後ろで彼女は首をふったようだ。その反動が背中に伝わってくる。 「どうして、彼のことを隠そうとしたんですか?」 「悪い人じゃなかったから」 「でも、泥棒です」 「そうね。だから、隠れて、そして、逃げている」 「奴は一人でしたか?」 「ええ」 「何か盗んだと言っていました?」 「いいえ。でも、仕事は済んだって。もう、これで終わりにするって」 「終わり?」 「そう」 「彼がそう言ったんですか?」 「言いました」  イベント館の前まで来た。そこにいた警官がびっくりして、中へ飛び込んでいった。  林はコンクリートの階段のところで四季を降ろした。彼女はその動作の途中で林の片手を握り、しばらく両手で彼の手を握って離さなかった。 「すぐ、ホテルまでお送りします」事務的な口調で林は言う。 「さっき、電話をかけていたでしょう?」四季は林に顔を近づけて囁いた。「瀬在丸紅子さんと、おつき合いがあるのね?」  林は驚いた。一瞬、躰に力が入る。  紅子が話したのだろうか?  しかし、そんなことを彼女が話すはずがない。 「考えている」四季はくすくすと笑った。「心配しないで。貴方の指輪を見ただけ」 「ああ、彼女と……、会ったそうですね」 「結婚しているの?」 「今はしていない」 「そう……」四季は頷いた。「離婚したのに、どうして指輪をしているの?」 「外れないだけだよ」 「嘘」四季は微笑んだ。「緩そうだもの」      5  美術展の主催者に展示品の確認をしてもらうことにした。生憎《あいにく》、夕方から、次の会場へ打合せに出かけていたため、こちらへ戻るのはもう少し遅くなりそうだった。  警察の関係者は大半が遊園地から出て、周辺の捜査や、検問の応援へと移動している。祖父江七夏は昨夜からほとんど眠っていなかったので、駐車場の車の中で数時間でも休もうと思った。しかし、林が、彼女に家へ帰るように命じた。上司の指示に従い、現場は同僚に任せて、一旦家に帰ることにしたものの、どうせ明日の早朝には、ここへ出てこなければならない。駐車場で眠った方がずっと躰が休まる。駐車場まで林と一緒に歩いている間、ずっとそれを考えていた。若いときの彼女ならば、絶対に口にしていただろう、「駐車場で寝ます」と。けれど、こんな時刻のこんな場所で、大切な人と二人で歩いている貴重な時間に、どうして、そんな寝場所の問題に執着した思考しかできないのか、それも不思議だった。それは、若いときからずっと変わらない。いつも彼女はこうなのだ。 「さっきは言わなかったが……」林が途中で口をきいた。「真賀田四季は、奴と話をしたようだ。彼女は、彼のことを何も話さないつもりだ。だから、執拗《しつよう》に追及しても無駄だ」 「そうですか……」 「奴は、今回の仕事を最後にするつもりだと言ったそうだ」 「え?」七夏はそれを聞いて立ち止まった。  林が遅れて立ち止まり、振り返る。 「どうした?」彼はきいた。 「本当ですか?」 「さあね、本当かどうかは誰にもわからない。奴だってわからないだろう。連続殺人犯だって、いつもこれで最後だって思っているかもしれない」 「もしも、これで最後だったら、もう、お手上げですね」 「どうして?」 「盗品を持っているところを押さえるか、それとも、自供でもしないかぎり無理だと思います」七夏は言った。「どうせ、盗品は流しているでしょうし、それに、自供なんてするタマじゃない」 「まえにも一度やめている。おそらく海外にいたんだろう。また戻ってくる。しかたがない。その間、被害が出ないんだから、幸せだと思えば良い。休暇だと思えば良い」 「まえのときは、警部はどう思われました? 休暇だと?」 「いや」林は笑いながら首をふった。「警察を辞めてでも、あいつを追いかけようと思った」 「私も今、そう考えました」 「駐車場なんかで寝ていると、だんだん気が短くなって、エキサイトしたままの人生になる。しかし、そういう熱いときに、人は打たれて、形を変えるんだ」 「哲学的なことをおっしゃいますね」 「年の功だ」彼は歩き始める。  七夏も黙ってついていった。  ゲートの警官たちが敬礼した。駐車場はライトアップされ、UFOが降りてきそうな雰囲気だった。空気が湿っている。今は空に星は見えなかった。明日は雨になるだろう、と七夏は思う。  林のシトロエンの十メートルほど手前で、彼は振り返り片手を挙げた。それだけだった。そんなドライさを許している自分を、七夏はいじらしく思う。シトロエンのエンジンがかかり、ヘッドライトがつき、そして彼女の前で左へ曲がりながら出ていくのを見送った。  結局、どちらの男も、捕まえられなかった。  汗をかいている額に手の甲を当て、自分の車に向かって歩き始めた。夏の夜。時刻は十一時半。      6  深夜一時。ホテルの一室。  真賀田四季が宿泊している部屋の窓際のリビングスペース。彼女の父親、真賀田左千朗が右のソファに、彼女の叔父、新藤清二が左の肘掛け椅子に腰掛けている。四季も、もう一つの大きな肘掛け椅子に座り、靴を脱いで足も椅子の上にのせていた。膝を抱え込み、自分の膝に顎をのせた姿勢で、じっと二人の大人のやりとりを聞いていた。一度も口出しをしなかった。  この二人は血のつながった兄弟だ。  左千朗の方が五歳年上で、見かけもずっと年輩に見えたし、体格も風貌も威厳が備わっている。それに比べ、清二は見かけは柔和な感じで、線が細い。兄には頭が上がらない、という大人しい弟だった。  今夜の出来事を清二が報告したが、もちろん、警察を通じて、左千朗はほとんどを知っていた。どれだけ自分が心配したのか、という表現の言葉が繰り返され、また、四季が受けた傷は大きい、という意味のあらゆる表現が展開された。しかし、つまり、彼は清二に腹を立てているのだ。弟を叱っているのである。  そのことに気づいて、四季は不思議に思った。叔父にどんな落ち度があるというのだろう? それよりも、四季が拘束されていたと思われる時間の詳細な様子を、彼女自身に尋ねるべきではないか。それを自分に問わないのは何故だろう? 警察からも質問は受けたが、彼女は黙秘した。父親から尋ねられれば、話しても良い、と考えていたのに、今は、もうその気持ちもなくなっていた。  明らかに八つ当たりをしている、と判断された。今まで、父の人格をこのように見切ったことは一度もない。それをしないように、彼女は今まで気を遣ってきた。そうすることが、娘としてのマナーだ、と彼女なりに考えていたからだ。  話は同じ内容が繰り返されているに過ぎない。  四季は、目の前のやり取りから離脱し、今日一目に遭遇した様々な人格、そして、彼ら彼女らそれぞれの関係を振り返っていた。そのときの映像が詳細に彼女の脳裏に再現され、一つ一つの言葉が、正確に再生された。  不思議なものだ。種々沢山のタイプの、つまりばらつきを有した人間たちが、それぞれ勝手に生きている。多くの者は自分で思考し、自分の判断で行動している。少なくともそう自覚している。全員を統率する者は存在しない。一人が黙っていても、誰かが目を瞑っていても、彼の周囲の人間社会はそれぞれに動き、常に変化していく。  お互いに絡み合い、思わぬところで関係を結んでいる。  不思議な循環が作られているようにも見える。  これらを束ねて、コントロールし、同じ方向へと導けば、どれだけのエネルギィが有効になるだろう。  彼女の別の部分は、現在進行中のプロジェクトの方針を考えていたが、ときどき叔父との関係の今後の展開へと思考が逸れた。こういったことが最近多くなった。最初は集中不足だと自分を戒《いまし》めたけれど、実は情報の多様化と情報量の肥大に起因した、必然的なオーバフローだったと気がついた。自分の限界を知ることで、彼女は非常に安心を覚えた。  それでもまだ、彼女が計画し、予定していることが、現実のものになることは稀だった。自分の歩み寄りが足りないのかもしれない。それとも、経験不足だろうか。これだけの情報を手にしているのに、まだ不足だろうか。  うまくいかないことも多い。  多くの場合、その主たる症状は、遅い、ということだ。  何もかもが遅い。  彼女の思考の外は、ほとんど止まっているかのようだ。  何故、こんなに時間をかけるのか。  現実の動きのいかに遅いことか。  計算したことが、実行されるのに、どうしてこれほど時間がかかるのだろう。つまりは、物体が移動する、分子が移動する、電子が移動する、そういったエネルギィの制約に起因したタイムラグなのか。経過時間の存在は、彼女にとって致命的だった。不可能がもしあるとすれば、それはすべて時間の短さによるものだといっても過言ではない。  化学反応を記せば一瞬だが、その反応が完結するのにかかる時間は、また別の条件下における影響要因を伴って、遅々として進まないものもある。ものは一瞬で温まるわけではない。物体の配置を損なわずに、その位相を保持して移動するにも、多大な加速度は禁物であり、結果的に多くの時間が移動に必要となる。  人の心もまた、鈍重さを抱えている。心とは、物質の移動や変化、それが発する信号を総称した概念であるから、これは当然だろう。つまりは、質量のないものでさえ、加速度に対する制限を受けているようなもの。  ものごとを考え、発想し、決心する思考段階と、実際に着手し、遂行し、それを成し遂げるまでの実行段階を比べれば、前者よりも、後者は格段に時間とエネルギィを消費する。無駄も多く、危険も多く、そして、不確定要素が介入する。成功するとは限らない。やり直しになることも珍しくない。現実には、摩擦がある、不可抗力がある、予期せぬ事態が多かれ少なかれ待ち受けているのだ。  これらを複雑という一括《ひとくく》りの概念で捉えるには、あまりに分布が広がっている。要因としては、大きさと、重さしかないのに、どうしてここまで複雑になったのか。それは、多さ、だけに起因した問題だろうか。  スワニィ博士との短い会見も蘇る。  こうした単純な複雑性によって、生命は成り立っている。  生きているとは、すなわちこの鈍重さによるタイムラグなのだ。  金属を切断すれば、そこに純粋な物質が現れる。  しかし、その輝きは、やがて酸化によって失われる。  つまりは、このひとときの輝きこそ、生命に等しい。  我々の躰もまた、酸化に対する鈍重性によって生かされているのだ。  躰とは、しかし、何だろう?  精神活動における、その影響は計り知れない。  人格どうしのあらゆる交渉は、躰によって行われている。  人に会いたいとは、その人間の躰を見たいという意味だし、  人を愛したいとは、その人間の躰に触れたいという意味だ。  これは、錯覚だろうか?  生かされている運命の鈍重さを、躰が象徴しているせいか。  そもそも、  新しい生命は、  どうして誕生する必要があるのだろう?  部屋のドアがノックされた。  四季の前にいた二人の男たちの会話もストップした。  彼女は黙って立ち上がり、ドアまで歩いた。  もう一度、小さなノック。  彼女はドアを少しだけ開ける。  通路には、彼女の母親、真賀田|美千代《みちよ》が立っていた。      7  四季はドアを開ける。  真賀田美千代は部屋の中に入って、奥にいる男たちを見た。  左千朗は座ったままだったが、新藤清二は立ち上がっていた。 「連絡を受けて、駆けつけてきました」美千代は言う。「何事もなくて良かった、本当に」 「お母様、ご心配をおかけして、申し訳ありません」四季は頭を下げる。美千代は四季を一瞥《いちべつ》する。彼女は軽く頷いただけで、娘に対しては何も言わなかった。 「もう、お話は済みましたか?」美千代は奥へ進み、男たち二人に対面した。「四季さんと私だけにしていただけないかしら?」 「ああ」ソファに座っている左千朗が頷いた。表情には急に疲労が表れている。彼は、新藤の方を見た。「良かったら、一緒に一杯、どうだ?」 「今夜はとても……」弟は首をふった。「どうも、では、これで失礼します」彼は美千代に頭を下げ、ドアの方へ向かった。  新藤はドアの手前で四季の横を通り過ぎる。彼女をじっと二秒ほど見た。それだけだった。四季の後ろでドアが開き、また閉まる。 「私は、四季には何も話していない」左千朗は立ち上がりながら言った。「こういうことは、母親の方が適しているだろう」  彼は妻を見ようとはしない。  妻も横を向いていた。  真賀田左千朗は、娘の前まで来て一度立ち止まった。 「気にすることはない」彼は言った。「君には大切な仕事がある。自分の力を信じなさい」 「ありがとうございます」四季は頭を下げる。 「おやすみ」 「おやすみなさい、お父様」  左千朗もドアから出ていった。  新藤清二が座っていた肘掛け椅子に、真賀田美千代が腰掛ける。 「四季さん、こちらへ」  四季は母親の前のソファに腰掛けた。もたれるようなこともなく、姿勢良く背筋を伸ばして。 「眠くない?」美千代がきく。 「いいえ」  美千代は脚を組んだ。白いブラウスに薄いブラウンのスカート。ヒールも茶色だった。髪は四季と同じくストレートで長い。多少茶色がかった色だったが、それは彼女に流れる血のためである。しかし、瞳は黒く、顔立ちも日本人的で、四季とはあまり似ていない。東京の国立女子大の教授で、専門は言語学である。四季は、母親の専門分野については、ほとんど知らなかった。 「怪我はない?」 「いいえ、どこも」彼女は首をふった。  おそらく、最近の自分は母親を遠ざけている、と四季は感じていた。それは、五年まえ、あの山荘で見た光景、首を絞められた女の死体のせいかもしれなかった。 「酷い目に遭ったわね」 「いいえ、本当に、何も酷い目には遭っていません。最初に首を絞められて、意識が遠のきました。気を失っていたのは、数分だったと思います。それだけです。彼が私の手や足を縛るときには、もう意識が戻りましたけれど、じっとしていました」 「どんな男でした?」美千代は尋ねる。 「よくわかりませんでした」四季は嘘をついた。「ご心配には及びません。彼は、私には関心がなく、自分の目的があって、警察の警戒を別の方へ向けさせようとしたのです。それに、たまたま私が利用されただけです」 「どうして、清二さんと、そんな場所にいたのですか?」 「お願いします。どうか、叔父様を責めないで下さい。私が我《わ》が儘《まま》を言って、花火を見に連れていってもらったのです。一度も間近に見たことがなかったので」 「なにも、二人だけで行かなくても」 「すみません。軽率でした」四季は頭を下げた。「砂山さんは、ちょうど勤務が交替する時間でした。こちらでは、セキュリティの人は私の知らない方です。知らない人を連れていくのは気が引けました。大勢で行くのも、なんだか恥ずかしかった。ごめんなさい、お母様」 「いえ、もちろん、貴女が悪いわけではないわ。でも、注意をしていれば、防げたことだったと思います。今後も、こういった危険は増えるでしょう。もう子供ではないのですから、自分の判断で、対処をして下さい」 「わかりました」 「何か、私に話したいことがある?」美千代は軽く首を傾げた。 「今は、特にありません。いつも、細かい、どうでも良いことで、お母様にお話ししたいと思うことはありますけれど」 「たとえば?」 「あんなスカートが欲しいけれど、どこで手に入れれば良いのか、とか」  美千代は微笑んだ。それから、大きく溜息をついた。  美千代は自分の話を始めた。今日、彼女が何をしたか、事件の連絡を受けてどれほど驚いたか、そして、どうやってここまで辿り着いたか。四季の大部分は、この退屈な話から既に離脱していた。  自分は、この女から生まれた、と再認識する。  死んだ伯母の方に風貌は似ているけれど。  植物ならば、隣の枝の花の方が色が近い、という程度のこと。  動物は、何故、個の意志を授かったのだろう。  個から個が誕生するメカニズムは、非常に効率が悪い。  離れた状態を、生まれる、と認識している、そのタイムラグ。  受精すれば、花は枯れる。  しかし、人は子孫を生んでも、まだ生きようとする。  何のために?  循環を望んでいるようで、阻害する。  永遠を望んでいるようで、悉《ことごと》く断ち切る。  一瞬の本能だけが、生命の循環を支えている。  脆弱《ぜいじゃく》だ。  その反動で、個が生じ、  この我が儘な自我を形成したかのよう。  新しい生命など産まずに、ずっと生き続ければ良いのに。  もしそれが可能になれば、人はもう子供を産まないだろうか。  永遠を手に入れることで、愛情は退化するだろうか?  どうも、理路整然とした理屈が見つからない。  混沌《こんとん》としている。  ここにも、やはり鈍重さが際立つ。  この矛盾を放置して、何もなかったかのように生きている。  目の前の欲望に陥って、生命の存在すら忘却できる。  不思議なメカニズムだ。  このシステムは、何を目指そうとしているのだろう?  そもそもが、自分たちの模倣を繰り返し、自分たちの外側に類似を見出そうとしている。それはつまり、破滅への確かな道。人は、自分たちに代わる者を見つけて、死にたがっている。  そう、生きようとする幻想は、つまりは、死への憧れなのだ。 「そうか、死ぬことを、もったいぶっているのね」 「劇的な立派な死が欲しい?」 「そんなことを考えるかしら?」 「みんなが死んでしまうならば、自分だって死にたい。死なんて、その程度のものだわ」 「自分一人で生きていくなんて、億劫《おっくう》なのでしょう」 「恐いのよ、何もかもが。自分の外側のものが、自分の内側に入ってくることが恐い」 「どうして入ってくるの?」 「受け入れるから」 「それに抵抗することに、価値があるかしら?」 「ああ、こんな議論からは逃げ出したいね」 「ほら、嫌がっている。逃げられると思う? どこまでも貴女を追いかけていくのよ」 「かといって立ち向かってもしかたがないだろう」 「だいたいさ、躰が一つしかないなんてのが、理不尽なんだ」 「誰に文句を言える?」 「地球だって一つじゃないか」 「地球だって理不尽だ」 「逃げ出せば?」 「集団自殺の類が、それに相当するね。考えている奴もいるってことだ。捨てたものじゃない」  チャンネルが瞬時に変わった。  椅子にもたれかかり、疲れた表情。その額に指をついて、真賀田美千代は溜息をついた。 「実は、貴女に話さなければならないことがあるの」彼女は視線を壁の方へ向ける。そこにあるものが見たいという眼差しではなかった。「もう、貴女も大人ですし、いつまでも黙っていて、急に突きつけられるよりは、ずっとましだと思うから。ええ、恨まないでほしいのだけれど」 「離婚されるのね?」四季は言った。こちらから言葉を差し伸べる方が母親にとっては楽だろう、という気遣いからだった。 「ええ……」一瞬目を見開き、美千代は四季を見つめる。しかし、すぐに、視線を落とした。 「いつ?」 「たぶん、近い将来に」 「お父様は?」 「彼は、今は反対しています。体裁《ていさい》を気にする人だから。せめて、研究所が完成するまでは一緒にいてくれって」 「どうして?」 「大学にいるうちは、そういう目で周りから見られたくないのでしょう」美千代は鼻から息をもらして、笑おうとした。「彼は、みんなであの島の研究所に住もうと考えていたのね。やっと、家族で一緒に暮らせるのに、なんて言うんですよ。いったい、誰が家族を壊したのかしら? 私は仕事を辞めるつもりはないし、それに、あの人と一緒に暮らすことも、もうできません」  五年まえのあの忌まわしい事件は、公にはなっていない。もちろん、四季が各務亜樹良に指示をしたものだったが、当時の彼女はまだ八歳。おそらく、処理後の情報は、左千朗へ伝わっただろう。美千代にまで伝わったかどうかはわからない。母親がどの程度の情報収集能力を持っているのか、四季にはまだ見定められなかった。  しかし、あの事件をきっかけに、父親が変わったことは事実だった。また、つい最近になって、アメリカで森川須磨が事故で亡くなっている。彼女も左千朗と関係があったことを四季は知っていた。  左千朗にしてみれば、自分の弱点が二つ消えたことになる。これが、逆に、妻に対する態度を硬化させる要因になることは容易に想像ができた。より高いところがあれば上りたがる、上って、辺りを見下ろそうとする、彼はそういう人間なのだ。 「貴女には本当にすまないと思っています。ただ……、一つだけ、たった一つだけ、貴女に言いたいことがあるわ。お願い、聞いてもらえる? これは、絶対に真実です。私の命にかえても、本当のことだと保証します」  四季は真っ直ぐに母親を見て、じっと静かに待った。  美千代は目から涙をこぼし、  それが頬を伝って顎から落ちた。 「貴女を産んだのは、この私です。それは信じて」  そう言うと、美千代は目を閉じ、  溢れる涙を止めようと、上を向いた。 「はい」四季は返事をする。  それを疑っていたわけではない。  疑う価値のある情報とも思えなかった。  自分がどの女から生まれても、自分には影響はない。  こんな些細なことに執着する母親が、しかし哀れだった。 [#改ページ] 第4章 希望は懐かしさの欠片 [#ここから5字下げ] この神こそは、一方現在にあっては、僕たち大部分を、その本来の状態に導き、僕たちに深い恵みを施されるとともに、また未来においても、僕たちに、一つの希望を与えてくださる。——その希望とは、ほかでもない。僕たちが神々に対し、敬虔《けいけん》な姿を保っているならば、太古本来の姿に、僕たちをもどして癒《いや》しながら、そのようにして、このうえなく幸福な者にしてくださる、という希望なのです。 [#ここで字下げ終わり]      1  夏は過ぎた。  四季は東京の自宅へ戻り、仕事に没頭した。三人のスタッフが彼女の手伝いをしてくれた。いずれも、来年には研究所の主要なメンバになるだろう。  彼女の今の仕事場は、かつての父の書斎である。大きなデスクがあって、壁には書棚が整列していた。すべて小さいときに読んでしまったもので、もう壁紙としての価値しかない書物ばかりだった。隣の部屋にスタッフたちが机を並べている。大型のコンピュータを持ち込むスペースはなかったので、小型のものでプログラム作成だけに集中し、それを試験的に走らせるために、磁気化したデータを近くの大学まで別のスタッフが運んだ。  没頭したといっても、傍《はた》から見て、四季が実際に仕事しているのは、午前中の二時間だけだった。あとの大半の時間を、彼女はソファで横になって目を瞑って過ごした。ときどき、屋外に散歩に出かけることがあったが、そのときには、セキュリティの男が二人、同伴しなければならなかった。歩くところは、決まって小さな川沿いの歩道で、橋を渡り、反対側を歩いて戻ってきた。途中に公園があったので、四季はそこでブランコに座ることが多かった。  何度か、そんな天才の姿をカメラが狙っていた。これらに対しては、四季はまったくの無関心で、一切抗議をしなかった。アメリカから戻った天才少女が、今何をしようとしているのかを、多くのマスコミはまだ知らない。離島の研究所の建設は、一応秘密にされていたからだ。  仕事は四季の予測どおり進行した。父親は彼女に論文を書いて発表するように、とアドバイスをしたが、それには彼女が従わなかった。論文を書くことは、彼女には、後ろ向きの作業だと思えたからだ。それはアメリカの大学でドクタ論文を書いたときに感じたことだ。研究を進めているときには前を向いているが、論文を書くときは後ろ向きになる。大多数の研究者は、そういった後ろ向きの視点を必要としている。確認作業や、人に説明する客観的な評価があって初めて気がつくこと、あるいは新たな糸口の発見があるからだ。しかし、四季にはそういったことはなかった。彼女にとっては、論文の執筆など、無駄な時間以外の何ものでもない。身近にいる、事情に精通している人間に説明することさえ億劫だった。まして、不特定多数を対象に、研究の成果を説明することなど問題外、必要なエネルギィの大きさに対して、得られるものは極めて小さい。  どうせ、しかし、いずれそういった作業は嫌でも必要になる。それは予測ができていた。あと二年で、おそらくこの分野の彼女の研究は行き着く。到達するだろう。その後は、それを実現する退屈な行為を眺めるしかない。人にわかる形で情報を整理し、噛み砕いて公表する作業も、その成果物が製品として世に出たときには価値を持つことになるだろう。だが、今はまだその段階ではない。前進することに集中したかった。  自宅では、ときどき父親に会った。母親は、今はここには住んでいない。都内のマンションを借りているようだった。大学に近いので、というのが表向きの理由である。誰も、二人の不仲を知らない。四季も、その点については気にしていなかった。  新藤清二とは、ほとんど会っていない。あの花火の夜以降、二度会っただけで、それも、ほんの僅かな時間だった。一度は、彼の妻、新藤|裕見子《ゆみこ》が一緒で、四季の仕事場を見ていった。もう一度は、彼女が病院へ健康診断に出向いたときで、それも、彼自身が診てくれたわけではなかった。院長室をノックすると、ちょうど来客中で、顔を一瞬だけしか見られなかった。そのあとの予定があって、車を待たせていたため、そのまま病院を立ち去った。  電話は幾度かかかってきた。こちらからもかけた。決まって、深夜の十二時を三十分ほど回った時刻だった。毎日ではないものの、三日に一度くらいの頻度で、電話があった。彼女はその時刻にはデスクの電話の近くにいるようにした。また、何か話題があるときや、電話が三日以上なかったときには、同じ時刻に彼女の方からコールした。 「叔父様、こんばんは、四季です」 「こんばんは。今かけようと思っていたところだよ」 「何か、お話が?」 「いや、特にない。いつものとおり」 「私も、相変わらずです。年が明けてから、また、研究所を見にいくことになったわ。是非、叔父様も一緒に……」 「うん、どうかな。しかし、僕は誘われていないからね」 「私がお願いしてみます」 「わかった、考えておくよ。そう、研究所に住み込みの医者だが、それも人選を兄貴から頼まれていてね、僕の後輩だが、一人行ってくれる人間が見つかった」 「叔父様が行かれれば良いのに」 「そうもいかないよ。この病院がある」 「それこそ、誰かにお任せになればよろしいのでは?」 「うん、そうだね」叔父は微笑んだようだ。軟らかい発声になる。「もちろん、そうしたいのは山々なんだが……。あんな、環境の良いところに、住みたいとは思ってるよ」 「お忙しいの?」 「君ほどではない」 「私は、全然大丈夫。今日も、散歩に出かけました。お昼寝も沢山しました。猫みたいによく寝るって、みんなに言われています」 「それは、単に処理能力の差だよ」 「兎と亀のお話があるでしょう? 兎は足が速いけれど、眠ってしまうの」 「うん、そうだ」 「でも、兎の方が沢山眠っているのですから、私は、兎の方が得をしていると思うわ」 「それができる能力ということだよ。どこも不具合はないかい?」 「三日まえにも、それをおききになりました」 「三日あれば、健康なんてどうにでもなる」 「叔父様も、どうかお躰に気をつけて下さい。寒くなってきましたから、お風邪をめされないように、くれぐれも……」 「そういうことを言うようになったね、君も」 「お気にめしませんか?」 「いや、とんでもない。君に関しては、気に入らない部分なんて、これっぽっちもないよ」 「嬉しい。たまにしか、そういうことをおっしゃらないから」 「ああ、もう、今夜はこれくらいにしておこう」 「ごめんなさい、お忙しいところを」 「じゃあまた、今度はこちらからかけるからね」 「ええ、待っています」 「お休み」 「失礼します」  僅かに一、二分のコミュニケーションだったが、これこそ、四季が何よりも頼りにしている時間だった。掛け替えのないものだと何故か感じるのである。自分でも、それが錯覚だという意識はあったけれど、それにしては、長く続いている。いっこうに色褪《いろあ》せる気配のない感情だった。したがって、今のところは普遍的なものだと評価できる。  しかしどう考えても、それは矛盾を孕《はら》んでいた。人間自体が経時変化する、物体としての躰が変化する、環境が変化する、そして、おそらくは情報によって価値観も変化するだろう。それなのに、普遍的だと感じる根拠は何か。理由などない。理由がないのに信じられるのは何故か。その点がそもそも矛盾している。他にこういった例はない。  とりあえずは、自分を試してみるつもりで、彼女は我慢しようと思った。叔父に会わないで、しばらく彼のことが忘れられるものかどうか、実験をしてみた。しかし、数ヵ月の観測では、その感情が弱まることはなかった。むしろ、強くなっている気がする。否、明らかに望みは強くなっていた。  結局のところ、彼女にとって一番の疑問は、自分が具体的に何を求めているのか、という部分である。欲望は、何かが満たされることを想定するものだが、その希望的な予測の具体像が、思い浮かばなかった。計算することができない。おそらくは、その不確定さこそが、この特殊な感情の持続性に関係しているだろう。掴みどころがないために、いつまでも幻滅が生じない。そういったメカニズムだと彼女は考えたのだ。  しかし、堂々巡りだった。結論は何も出ない。問題さえも明らかにならない。こんな思考を繰り返していては、鉄の酸化にも類似した、熱の発生を伴う無駄。エネルギィの消耗だ。  彼女は思考を切り換え、視線を窓へ向ける。カーテンがまだ閉まっていなかった。立ち上がり、カーテンを引く。それから、隣の部屋を覗くことを思い立った。スタッフたちの様子を眺めることは、これまであまりしていない。みんなは夜に働いている。どういうわけか、そういう時間が好きらしい。  ドアを開けて通路に出る。隣のドアをノックした。微《かす》かに音楽が聞こえる。返事がなかったのでドアを開けてみると、室内からその音楽が溢れ出てきた。四季は中を覗き込んだ。その部屋は、もともとは応接室だったため、中央にソファと低いテーブルがある。窓際に事務机を二つ置き、そこに二人、そして中央のソファを一人が占領していた。  三人とも、驚いた顔をこちらへ向ける。  音楽が突然止まった。奥の一人がスイッチを切ったのだ。 「いかがですか?」四季は部屋の中に入り、三人に尋ねた。 「え、ええ……」手前にいた太った男が立ち上がって頷いた。「順調です。まったく問題ありません」 「そうかな」奥にいた痩せた女性が腕組みをする。「そんなこと言っちゃって良いのかなぁ」 「何か、疑問点があれば、私にきいて下さい」四季は言う。  奥の左に座っている男を見ると、彼はメガネに手をやって、黙って首をふった。 「音楽、煩《うるさ》かったですか?」太った男がきいた。 「いいえ、聞こえませんでした」四季は答える。「でも、どうして音楽をかけているの? 仕事中なのに」 「この方が、集中できるんすよ」彼は何度も小さく頷いた。  その理屈は間違っている、と四季は思ったが、そう思い込んでいる人間に説得しても効果は少ないだろう。  奥の女性は、キーボードの横に、小さな人形を置いていた。四季はそちらへ行き、その人形を手に取った。プラスティック製のものだ。頭の大きい子供の人形で、後頭部にスリットがある。貯金箱になっているようだ。 「これは、何?」 「なんでもありません」彼女は笑って首をふった。「お守りです」 「お守り? 何を守るの?」 「うーん、私をエラーから守ってくれます」 「へえ、そう」四季は微笑んで、その人形を彼女に返した。 「シンタックス・エラーばかりだからな」太った男が呟くように言う。  彼の前のテーブルには、ジュースの空き缶が何本も立っていた。漫画の雑誌が数冊積まれている。ゴミ箱がすぐ近くに置かれていて、菓子の袋と思われるものが、押し込められていた。こういった状況で彼らが仕事をしていることが、四季には多少目新しい。しかし、すぐに理解した。そもそも、こうした人間の特質を、今までの社会が排除していただけだろう。排除することで仕事の能率が上がると信じられていたからだ。それは、人間の作業の大半が手仕事であった過去の時代の名残《なごり》にちがいない。 「気分転換ですか?」太った男が四季に尋ねた。 「私?」 「どんなことで、気分を紛《まぎ》らすんですか?」 「気分を紛らす?」四季は一瞬で彼の思考をトレースした。「貴方は、何? お菓子? それとも漫画?」 「どっちもです」彼は微笑んだ。「片づけます。すみません」 「いえ、全然かまいません。良い仕事をして下さい」  通路を誰かが歩く音がした。隣のドアがノックされる。四季の部屋に誰かが来たようだ。こんな時刻にやってくるのは、一人だけ。各務亜樹良だ。四季は、急いでその部屋から出た。      2 「お久しぶりです」各務亜樹良は四季の部屋に入り、改めて挨拶をした。「ずっと、遠くへ行っておりました」 「どちら?」 「北米です。いろいろとありまして」各務は無表情のまま軽く答える。彼女らしい。「四季様のご依頼の中国人とは、先々週にトロントで会うことができました。こちらの意向は伝えてあります。まだ返事はもらっていませんが」 「どちらでも良いわ」四季は頷いた。「それほど重要でない人ほど、向こうは渋る傾向にあるわね」 「渋ることで、条件が良くなると考えているのです。つまり、最初の条件が低いことが不満なのでしょう」  各務は書棚の前に立ち、それらを珍しそうに眺めている。そういえば、彼女がこの部屋に来るのは初めてのことだった。 「最近、つまらない」四季はデスクの椅子に腰掛けた。 「仕事がですか?」 「いえ、仕事は、つまらなくもない、面白くもない、そういうものです」 「では、何が?」 「何でしょう」  各務は小さく息をもらした。可笑しかったようだ。しかし、顔は笑っていない。 「あ、そう……」各務は腕組みをしたまま、こちらを振り向いた。「瀬在丸紅子のこと、どうなさいます?」 「どうもしません」四季は首をふった。「波形認識に関して、彼女は特別なノウハウを持っているようです。今のところ利用価値があるものは、それくらいね。彼女、あの警部とは今でも会っているの?」 「ええ、たぶん」 「どうするつもりなのかしら?」 「さあ、私にはわかりません」 「生活費に困らない?」四季はきいた。ずっとまえに各務から送られてきた簡単なレポートに、瀬在丸の情報が書かれていた。箇条書きにして、二十項目程度の簡単なものだった。 「既に困っていると思います」各務は答える。「しかし、あの警部が援助をしているようです」 「どうして、離婚をしたのに? 慰謝料? そうか、子供がいると書いてあった。その養育費ね?」 「いえ、現在は、息子は父親が引き取っています。たぶん、通っている高校が近いためだと思われますが」 「高校生?」 「レポートに書いてありませんでしたか?」 「年齢までは書いてなかった。そんなに大きな息子がいるのね。とすると、彼女がいくつで産んだの?」 「ええ、確か……、十七か十八」 「なるほど、それがあの人を、あんなふうにしたんだわ」四季は言った。 「どういう意味ですか?」 「いえ、良いの」四季は目を瞑り、顔を少し上に向けた。「わかった。その話はおしまい」 「では、もうお暇《いとま》しましょう」 「仕事はうまくいっているかって、きかないのね」四季は言う。 「信じています」 「順調に進んでいます。スタッフは優秀です。研究所が完成する頃には、最初の製品のプロトタイプが動いているでしょう」 「では、そろそろセールスのスケジュールを組みましょうか。その方面のマネージャも起用する必要があります」 「任せます」 「いよいよですね」各務は少しだけ笑ったようだ。 「別に、何もいよいよではありません。ずっと同じ速度で流れているだけです。初めて、金額として成果が見えてくるだけのこと」 「それは、私ではなく、私のバックにいる組織には極めて重要なファクタです。数字を示すこと以外に、説得はできません」 「大丈夫。心配はいりません。私が死なないかぎり」 「当初の見積もりに対して、修正の必要はない、ということですね?」 「当然です。あれは、安全率を見込んだ数字です」 「では、実際にはもっと大きい、と?」 「そうなるでしょう。しかし、無駄に喜ばせないために、まだ上には話さないように」 「わかりました」 「彼とは、うまくいっている?」四季は突然話題を変えた。 「え? 彼って?」 「泥棒さん」  各務は口を一文字に結び、四季を見据えた。 「怒った?」 「いいえ」首をふり、ほんの僅かに片方の肩を上げた。「ずっとうまくいっていないし、これからも、うまくいく要素は何もありません」 「それは残念ね」 「うまくいくかどうかなんて、愛情とは関係がないのです」 「どういうこと?」四季は目を細めた。「不思議なことを言う」 「失礼ですが、たぶん、四季様もいつかご理解なさるでしょう。相手がどう思おうが、どんな仕打ちを受けようが、自分から相手に向かった愛情の強さには関係がないのです」 「それで、報われるの?」 「それも無関係です」各務は首をふった。「よくわかりませんが、そういうものなのです。人を愛することは、うーん、自分が死んでしまうことと、大差がありません」 「では、どうしてそんな無意味な方向へ力を注ぐのですか?」 「申し訳ありません。私は……」各務は言葉に詰まった。何か、彼女の感情に響くところがあったようだ。「その、結局は、私自身のことしか考えられない人間なのです。こんな因果な仕事をしていますが、これも、自分が我が儘でいられるということが、主たる理由です。彼が私のことをどう思っていようと、私には関係がありません。私は、その……、その一時の、その一夜だけの時間を手に入れた自分に酔うだけです。時間も、社会も、それに、彼さえも、私にとっては、単なる背景に過ぎません」 「なるほど」四季は頷いた。「貴女、子供のときに、何か酷い目に遭ったでしょう?」 「お話ししたくありません」各務は首をふった。 「いえ、きくつもりはないわ」四季は片手を挙げた。「ごめんなさい。でも、貴女の気持ちが私にはトレースできます。自然なことだと思う。ショックによって戻すことは可能ですが、きっと戻ることを貴女自身が望んでいない。そうですね?」 「はい、私は今のままで充分です」 「私もそう思います。現代の医学は、病気を治し過ぎる。元どおりに戻ることが善だと皆が信じている。したがって、その程度の結果しか得られない。生きることが最善だという概念があるために、人は最良の方法を見失っているのです」 「では、死ぬことが善ですか?」各務はきいた。目を細め、眉を顰《ひそ》めている表情は、これまでにあまり見られないものだった。「私は、何度か自殺をしようとしたことがあります」 「本当のところ、その決心は、生きる糧《かて》となるでしょう。しかし、決心が実行され、それが成功したときには、その精神は存在しないというジレンマが待ち受ける。だから、誰も、それを確認できない」 「よくわかりません」 「それが正解です」四季は微笑んだ。「貴女と話していると、新しい発見があって、とても面白い」彼女は片手を広げた。「気を悪くしないで。歳上の人に向かって、こんな口をきくなんて、小憎らしいでしょう?」 「いいえ」各務は微笑んだ。「もうおつき合いが長いですからね」 「でも、最初の頃はそう思っていた」 「はい、正直に言いますと」 「よく我慢していられましたね」 「簡単です。それは、貴女の中に、真実があると思ったからです」 「真実? 私の中にそんなものがあると?」 「あります」各務は頷いた。 「どうして、それが真実だと思うの?」 「わかりませんが、それはたぶん、力を持っているから、他との区別ができます」 「うーん、なるほど」四季はまた微笑んだ。「面白いわ」 「あの、もう失礼いたします」各務は壁の時計を見た。「しばらくこちらにいますので、また呼びつけて下さい。いつでも参上いたします」 「お願いが一つあります」 「はい」 「お父様と、お母様のことを、少し調べていただきたいの」 「何を、ですか?」 「今、どんな生活をしているのか」 「それは……」 「私は、すべてを知っているわけではありません。よろしくお願いします」 「あの、よくわかりません。何をお知りになりたいのですか?」 「わかりません」四季は首をふった。「でも、情報の空白を埋めたいと思うのです。一週間で良いわ。二人がどこで何をしたか、レポートしてもらえますか? 詳細なものは必要ありません。何時にどこにいたか、一人だったのか、誰かと会ったのか、その程度の情報でけっこうです」 「浮気調査ですか?」各務は口を斜めにして言った。冗談のつもりだったのだろう。  四季は黙って、そして優しく微笑んだまま頷いた。冷酷という概念が、その本質が、彼女には未だに具体的に理解できなかった。      3  クリスマスの二日まえ。新藤裕見子は同窓会に出かけた。彼女は毎年、この大学時代の同窓会に出席していた。  四季は、それを以前から知っていた。裕見子と清二がその話をしているのを聞いたことがあった。  また、五年まえのこと、四季が新藤病院のロビィで遊んでいるとき、郵便局の職員が玄関から入ってきて、受付に手紙の束を置いていった。そのうちの一枚が床に落ちて、近くにいた四季がそれを拾い上げた。裕見子に届いたその案内のハガキを彼女は見て、そのすべてを記憶していた。  四季は、その電話番号をコールした。 「もしもし」 「はい、大塚《おおつか》です」 「私、新藤です」四季は、新藤裕見子の声、そして話し方の真似をする。口真似は簡単だった。 「ああ、裕見ちゃん? お久しぶり」 「ごめんなさい突然。あのね、私、ハガキをなくしちゃって」 「ああ、同窓会? うん、えっと、明々後日《しあさって》だね」 「あれ? クリスマスじゃなかった?」 「違うよ、二十三日。えっと六時から」 「いつものところ?」 「えっと、そうだね、去年と同じかな。六本木の」 「良かった、電話をして」 「遅れないように。いつも、遅れてくるんだから」 「うん、ありがとう」 「はいはい」  彼女は受話器を戻す。  翌日の夕方に新藤病院へ行き、看護婦の部屋へ遊びにいく振りをして、スケジュール表を見てこよう。叔父がいれば、会って予定をきけば良い。そういった計画を瞬時に立てても、それを実行するまでの時間は、宇宙旅行のように長く感じられる。  人はチェスの駒のようには動かない。  しかし、動き方にばらつきがあっても、結局行き着くところは似ている。本人がここで良いというところで落ち着く。本人が望まなくなるまで移動を続ける。  自分自身がゲームの世界の中にいるような、そんな感覚がわき上がってきた。道筋があって、進むべき先があることは、この上ない幸せだ、と彼女は感じた。矛盾を抱えながらも、それほど嫌な気分がしないのは、つまりは生きている目的に近い行動だからだろうか、ハチが花の蜜を求めるように。明らかに錯覚であるけれど、どうしてこのような錯覚が、人間には必要なのだろう。  残念ながら、こればかりは実験ができない。  サンプルを他に求めるにしても、類似のものが滅多にない。  これまでに会ったことのある人物の中で、自分に一番似ているのは、おそらく瀬在丸紅子だろう。彼女が十代のとき、同じような問題を抱えただろうか。各務亜樹良の話によれば、彼女は十七か十八で出産しているという。きっと、何かの答を出したかったのにちがいない。そして、子供を産んで彼女はああなったのだ。最後のシールドによって、自分の殻の中へ待避《たいひ》した。子孫を残すことが、すなわち自分の死をイメージすることに等しいと、彼女ならば気づいていただろう。それだから、一度死ぬことによって、すべての精神をリセットした。手っ取り早い方法を選んだものだ。  自分はどうだろう?  たとえば、子供を産むことで、リセットが可能だろうか。否、そんな軽量なシステムではもはやない。無理だ。あるいは、薬か何かで、一時的に幻覚を見る手もある。それとも、部分的な忘却を誘発する何らかの方法があるとも聞いた。危険な外科手術かもしれない。つまりは、そういった方法でしか、組み立てられたものを直すことができない。消すことが難しい。この容量の大きさが自分の特徴であり、そのために生じる唯一の弊害は、消去が困難なことだ。  まだ十三年しか生きていない。  もう十三年も生きた。  吸収できるものはすべて取り入れ、そして、何も失っていない。  今自分に必要なことは、自分の何かを失うこと。  何かを切り捨て、消し去ることだ。  どうすれば、それが可能だろうか。  一度記憶したものを、忘れるということが、できない。  そのコントロールだけが、どうしてもできないのだった。  そう……、  あのとき、  夜の遊園地、建物の裏の闇の中で、  首を絞められたときだ。  あのとき、  何かが掴めそうな気がした。  あの感覚は、今までになかったものだった。  外力によって意識が薄れていく、  あの電圧低下のような瞬間が、  きっと、忘れる、という現象なのだろう。  あれが、消えていく、という体感なのだろう。  自分が望んでいるものは、あれだ。  クリスマスツリーが、四季の部屋の中にあった。父親が買ってきたものだった。スタッフが飾り付けをしてくれた。電飾が瞬《またた》いている。赤、緑、黄色。目を細めて、その映像をぼかす。記憶を曖昧にする方法はないものだろうか。消すことができなくても良い。わからなくしてしまえば良いのだ。別のものと合わせるとか、無理に攪拌《かくはん》するとかして、原形を留めないまでに加工してしまえば、つまりは消えたことと等しい。  なるほど……。  確かに、一時|凌《しの》ぎにせよ、有効な方法ではある。  一度試してみよう。  これまで、時間や空間をあまりにも無視しすぎたかもしれない。もっと周囲に定着し、もっと多くの関係を結ぶべきかもしれない。ネットワークの安全性は、その方が高まるだろう。洗練されたものとは、つまりはガラスのように脆《もろ》いものだ。  こうした抽象思考を続ける間にも、四季の大部分は具体的な計算を行っていた。紙に書くことも、またキーボードを叩くことも、彼女はしない。結果を書き留める意味がないからだ。  また、四季は絵を描くこともない。描くことの意味が、彼女にはないからだ。頭の中にある映像や立体は、現実のものよりも詳細で、自由だった。いつでも取り出せ、いつでも変形できる。色を変えたり、大きさを変えることも自由だ。それなのに、不自由な紙にどうしてものを描く必要があるだろうか。  しかし、結局はすべて、その不合理さの排除が、自分を追いつめていることに、彼女は気づき始めていた。自分の内にあるものが絶対すぎる。そのために、失うという行為が遠くなる。自分の外にあるもので、自分の中に取り込めないものの存在が、ときどき彼女の前に立ちはだかる。  すべて抽象に過ぎない。  しかし、具象よりは真だった。  あるいは、自分の意識が、もしかして自分の外側に存在したとしたら、どうなるだろう。はたして、自分の意識は自分の内側か? もし外側ならば、この世界はすべて自分のものか。  何故、愛《いと》おしいと想うものが、自分の外側に存在するのか。  それを内側に取り込むことを、瀬在丸紅子はしたのだ。  自分にもできる。  しかし……、  紅子のように虚構を内に残すような結果になっても良いのか。  後悔はないか。  後悔?  四季は、くすっと吹き出した。  後悔とは、何だろう?  その感覚を、彼女はまだ理解できないでいる。  何故、悔いることがあるのか。  どうやったら、悔いることができるのか。それがわからない。  想像するに、瀬在丸紅子は、きっと後悔を初めて知ったのだ。  あの男が原因か。  自分にも、それを取り入れる必要がある。  そのファクタは、きっと価値があるだろう。      4  コートを着てきたけれど、タクシーから降りると、思いのほか寒かった。太陽は既に沈んでいるのに、車のヘッドライトはまだ点灯していない。歩道を歩く人々は肩を竦め、襟を立てていた。道路の向こう側に、新藤病院の建物がある。叔父のいる部屋の照明が灯っているのが見えた。  寂《さび》れた雰囲気の喫茶店が、病院のゲートが見える位置にある。彼女はその店のドアを開けた。ベルが鳴り、カウンタの中の店員が四季を見て驚いた顔になる。彼女は窓際の席についた。 「あ、どうも、お嬢様、お珍しい」年輩の男がテーブルへ来て、頭を下げた。 「こんにちは、大橋《おおはし》さん」四季は微笑んだ。 「はい、大橋です」男は嬉しそうな顔をする。子供のときに一度話をしたことがあった。それだけだ。 「ミルクティーを」 「かしこまりました」  他のテーブルの客も、こちらを見ていた。四季は窓の外へ顔を向ける。病院のゲートも視界に入った。通り過ぎる車も、歩く人々も、すべてを見るつもりはなくても、見てしまう。この種の網羅的曖昧性をいずれは機械も取り入れることになるだろう、と想像した。  紅茶が運ばれてきてから、それに口をつけつつ、計算をした。  このところ、仕事以外の無駄な問題に手を出している。数学か、あるいは非常に可能性の低い条件下の物理現象のシミュレーションだった。しかし、少し考えて、数値を使った計算のパターンが掴めると、最近ではプログラムをして計算機に任せてしまうことが多くなった。だから、ずっと同じ問題を、同じ式を、展開し続けることはほとんどない。そういった問題に興味がなくなってしまった。ある意味で、自分はその位置に到達したと評価できる。こうなってしまうと、確かに別の分野へ行かないかぎり、面白い問題には出会えないだろう。出会えても、頻度が低いため、生きている時間の大半を無駄にすることになる。  紅茶を半分ほど飲み、十五分が経過したところで、ゲートから新藤裕見子が出てきた。予定どおりだった。彼女は、しばらくそこに立っていたが、通りかかったタクシーを停めて、その車に乗り込んだ。  四季はバッグを持って立ち上がる。店の入口付近にピンク色の電話があった。彼女は受話器を取りコインを入れ、ナンバを押す。店内には音楽が流れている。しかし、人に聞かれないように小声で話した。 「はい、新藤です」聞き慣れた声だ。 「叔父様、私です」 「やあ、君か。どうしたの、こんな時間に、珍しいね」 「今、病院の前の喫茶店にいます。ちょっとお時間をいただけませんか?」 「え、どうしたんだい?」 「お話ししたいことがあります」 「いいよ、いつでも」 「いえ、叔父様、出られませんか?」 「ああ、わかった。ちょっと待ってて。五分で行くよ」 「あの、車に乗せていただきたいの」 「車? どうして?」 「車の中が、一番誰にも聞かれないし、誰にも見られないわ」 「変なことを言うね」新藤は少し笑ったようだ。「いいよ。今夜は特に仕事もない。片づけてから出ていこう」 「ごめんなさい、突然」 「車となると、裏口が良いな。回れるかい?」 「ええ、では、裏口から出て東へ行ったところにいます」 「わかった」  四季は受話器を置き、テーブルにレシートを取りに戻った。それを持ってレジへ行く。さきほどの男がカウンタから出てきた。 「ありがとうございます。今日は、新藤さんのところではないのですか?」 「ええ、違います。別の用事で……」 「お一人で出歩かれるなんて、思いませんでしたよ」  四季は店を出るまえにバッグの中にあるサングラスをかけようかと考えた。しかし、外はもう薄暗くなっている。余計に目立つだろう。  歩道橋を渡った。病院の建物がよく見える。叔父の部屋の照明は灯っていた。まだ部屋にいるようだ。きっと慌てているだろう。何かの約束をキャンセルしたかもしれない。夜にするつもりだった仕事を誰かに押しつけているだろうか。  病院の横を抜ける細い道へ入る。左側はずっと連続したコンクリートの塀で、ところどころに蔦《つた》が這っていた。電信柱の斜めの張線にも絡みついている。右側には、小さな住宅が並んでいた。道路にまではみ出して植物を飾っている家、割れたガラスをテープで補修している家、子供の自転車が玄関の前に倒れている家、錆びた雨樋が壊れて、途中で行き違いになっている家。照明が灯り、室内が丸見えの家、どれも人間の家だ。子供も、若者も、中年も、老人も、一様に家の中で暮らしている。持ちもののすべてが持ち歩けないからだろうか。  アスファルトの粗さが、闇に隠れようとしていた。  一足先に、ここは夜だ。  空はまだ幼い色のブルー。  コンクリート塀の向こうには樹々のシルエット。  僅かに揺れている。  冷たい風を思い出した。躰は鈍感だ。  彼女は自分の手の冷たさを確かめた。  そうか、寒いのだ。  あまり、こんな寒さを経験したことがなかった。  だんだん、手が痛くなる。  コートのポケットの中に手を入れることにした。人がこうしている様子を見たことがあったが、試すのは初めてのことだった。  裏道に出る。  子供が二人歩いていた。小学生の低学年くらいの男の子だ。こちらをじろじろと見ている。四季は睨《にら》み返してやった。  病院の裏口のゲートが見える。あそこから、叔父の車が出てくるはず。彼は二台の車を持っている。一つはボルボで、後ろに荷物が載せられる。もう一台は二人乗りのスポーツカーだ。屋根が折り畳める。どちらも、四季は乗ったことがあった。彼は車の運転が好きで、ステアリングを握っているときは、とても楽しそうだ。彼女はそんな清二を見たい、と思う。  待った。  大部分の彼女も、今は何もしていない。  眠ってもいない。  注目していた。  自分たちが乗った船のことが心配なのだろう。  揺れている。  自分は揺れている、と感じた。  どこかで、誰かが楽器を演奏している。  クラリネットか、それともサックスだろうか。練習をしているようだ。病院の裏手には公園があった。見えないが、そこで吹いているのだろう。もう、だいぶ暗くなっている。  待った。  何度か、シミュレーションが走った。フィルムが繰り返すように、これからの未来の幾通りかのパターンを確認した。いずれは収束するだろう。マウスが迷い込んだ迷路のように。  車が一台通り過ぎる。  速度を落とし、運転手が四季をじろじろと見ていった。  少し移動。  公園の入口の前まで来る。裏口のゲートまで十メートルほどの距離だった。病院の窓にはほとんど照明が灯っている。こちら側は廊下が多い。 「四季さん?」後ろから声をかけられる。  振り返ると、公園の入口に、青年が立っていた。黒い制服を着ている。高校生だろうか。顔に見覚えがあった。病院で遊んだことがある少年だった。名前は知らない。 「こんにちは、お久しぶり」四季は微笑んだ。 「こんにちは。僕のこと、覚えている?」 「ええ。でも名前を聞いたことはないわ。いつも、貴方は後ろの方にいた。ビー玉で遊んでいたでしょう?」 「そう、四季さんは、シュートの確率の話をしたよね」 「ええ。誰にもわからないと思ったけれど」 「よく覚えている。あとで思い出して、凄いと思った」 「ありがとう、正しいことは、いつか理解されるわ」 「ここで、何をしているの?」 「ええ、ちょっと待ち合わせを」 「そう……」少年は頷いた。「寒いね」 「ええ」 「僕、最近、軽音をやっているんだ」 「ケーオン?」四季は首を傾げた。 「うん、軽音楽。今、サックスの練習をしていた」 「ああ、貴方だったの」 「まだ下手だけれど」  公園の奥のベンチに、金属製の楽器が置かれている。四季の姿を見つけて、駈けだしてきたのだろう。 「コンサートができるようになったら、切符を送るよ。クラブの演奏会くらいじゃ、駄目だよね?」 「わからない、私には」  少年は片手を振り、立ち去った。  どうして、あの人は、あんなプライベートな話をしたのだろう、と四季は不思議に思った。相手にはまったく関心のないことかもしれないのに、その確率が高いのに、何かを訴えるように一所懸命になって話そうとしている。何故だろう。他に話題がないからだろうか。しかし、どうして話題がないのに、無理に話さなければならないのだろう。  こういったコミュニケーションが、普通は必要なのだ。  そうか。  無駄な話でも、話すという行為に意味がある。言葉を交わしている、つまり送信と受信が可能である状況を確認する意味はある。  人は、話すことで、通信の確認をしているのだ。  あるいは、手を握ったり、躰を寄せ合ったりするのも、これと同じ確認作業なのだろうか。  そういうことか。  何故、こんなに人はコミュニケーションを欲しがるのか、しかも、話したがっているように見えるのに、その実は、話のほとんどを認識していない。内容をすぐに忘れてしまう。話だけではない。歩いたり、食べたり、人と会ったり、すべて、結果ではなく、過程に価値を見出そうとする傾向にある。  こういった人間全般に関する傾向を、これまで四季はほとんど問題にしなかった。自分には関係のないことであって、それは、つまり木の葉がどのように風に舞うのか、川の流れがいかにして砂を運ぶのか、といった問題よりも考える価値のないものだと思えたのだ。法則性が見出せない対象の平均的な傾向を把握したところで、汎用的な価値は生じない。  おそらくは、これも自分自身を確認する行為に帰着するのだろう。他人をこれほど意識したことは、かつてないこと。他人にこれほど依存しようと欲したことも、一度もない。  四季のすべてが、裏ゲートから車が出てくるのを待っていた。彼女自身の視点で見ている部分、はるか上空から、この光景を見ている部分、彼女の周囲をぐるぐると回る視点を持つ部分、このあとの時間を既に彷徨《さまよ》っている部分。エンジン音が聞こえ、二つのヘッドライトが現れた。  鼓動を自覚する。  一つしかない心臓。  一つしかない躰。  生命は、何故一つか。  スポーツカーが、彼女の前で停車した。      5  街の中の渋滞を抜け、高速道路に入った。  車は滑るように走る。  四季の躰は、まだ冷たかった。  シフトギアを握っていた彼の手に、彼女は自分の手を重ね、そして、自分の手の冷たさを知った。 「寒かったから」手を離して、彼女は言う。  車の中は今はもう暖かい。低いエンジン音も、細かい振動も、心地が良い。眠ってしまいそうだった。 「どんな話?」彼はきいた。  もう走りだしてから十分以上経過していたのに、今まで何も話さなかった。 「どんな言い訳をなさったんですか?」四季は尋ねた。「今夜は、お仕事があったのでは?」 「友達のお父さんが亡くなったので、通夜に出かけるって」 「奥様は、何て?」 「あぁ、彼女は出かけているんだ、今夜は」 「それじゃあ、帰らなくても良い?」 「どこへ行くんだい?」 「運転しているのは、叔父様です」 「少なくとも、次のインタチェンジまでは、前に向かって走るしかないね。ときどき、こうやってエンジンを回してやらないと、可哀想なんだ」 「海が見たい。灯台が見たい。それから、トンネルが見たい。鉄橋を下から見てみたい。それに……、鍾乳洞《しょうにゅうどう》が見たい」 「それはちょっと、全部は無理だよ」 「お食事をしましょう」 「うん、それは名案だね」 「私、アルコールが飲んでみたい」 「君はまだ未成年だ」 「駄目?」 「まあ、少しくらいなら」  オレンジ色の光が二列に並んで、広がりながら、後方へ流れていく。道路は真っ黒で、白い途切れ途切れのラインが、中央で動いている。前方を走る車の赤いライト。ときどき点滅する黄色いライト。輝かしい緑色の標識。  少し運転席の方へ頭を寄せる。  ステアリングの前のメータが綺麗だった。  綺麗?  そんなふうに思うことが、驚きだ。  車の振動で、躰が攪拌されている気分。  血液が泡立ち、思考は減速する。 「ほら、お望みのトンネルだよ」新藤が言った。  明るい穴の中へ、道ごと吸い込まれていく。  低音の響きに包まれ、今まで見たことのない艶やかな光で、どの車もラッピングされた。円筒形が先へ行くほど左へカーブしている。上っているのか、下っているのか、わからない。  宇宙へ飛び出すような感覚で、そこを抜け出した。  真っ暗な谷間のようだ。  上の方まで地面がある。空はどこへ行ったのだろう。 「飛んでいるみたい」四季は呟いた。 「飛行機が操縦できたら、楽しいだろうね。誰もいないところへ行ける」新藤が話す。「自動車じゃあ、どこへ行っても、やっぱり自動車ばかり。道があるってことは、社会の内側だ。つまり、社会からは抜け出せない」 「そういう一人だけのところへ、行きたい?」 「行きたいね。何もかも捨ててしまって、一人だけで、山奥でも、離島でも良いから、行ってみたい。ずっとそこで暮らしたい。そういうのが夢だなぁ。自給自足で、何でも自分一人。住むところを作って、魚を捕ったり、植物を採ったり、ナイフ一本で生活していくんだ」 「どうして、そうなさらないの?」 「うーん、それはやっぱり、できないからだろうね」 「どうして?」 「まあ、しがらみがあるからかなぁ。女房がいるし、病院はあるし、いろいろ、義理がある」 「一人になってしまえば、それは、消えてしまうものでは?」 「忘れられるなら、良いのだけれど」 「忘れられない?」 「わからないなぁ」新藤は笑った。「案外、あっさりと、忘れられるかもしれない。今、これから、このままどこかへ行ってしまって、もう二度と病院へは戻らない。女房とも会わない。そんなことが、できるだろうか」 「できるわ」 「君はできるさ」 「どうして、私にはできるの? 叔父様はできない?」 「それは、つまり、今まで生きてきた時間の大小関係だと思うよ。僕は君より二十年以上余分に生きているんだ。それに、このさき残っている時間は、今までよりも少ないかもしれない。そんな状態で、これまでの積み重ねをすべて捨ててしまうことは、なかなかできるものじゃない」 「すべてを捨てるわけではないわ。自分はここにいる。叔父様が三十六年間で築き上げたほとんどすべてのものが、今、この車に乗っているのよ。しがらみというのは全部、叔父様以外のものです」 「それは、そうだね」彼は頷いた。「つまり、何だろう、恐いのかな……」 「新しい生活が?」 「やり直すことがね。それに、残された人たちのことを思うと、やっぱり、後悔してしまうだろうなって思える。うん、これは、僕が凡人だからだ。君のような……」 「そんなことは関係ないわ!」四季は早口で言った。 「いや……」新藤は驚いた顔をして、助手席を一度見た。 「ごめんなさい」四季はすぐに謝った。「ああ、どうかしている。どうしてコントロールできなかったのかしら。まるで子供だわ。失礼しました」 「いや、僕が悪かった」 「いいえ、叔父様は何も悪くありません。ああ……、原因がわからない」 「もっと別の話をしよう」新藤は前を向いたまま話した。「君は、どんな夢を持っている? もっと景色の良いところで暮らしたいとか、こんな家庭を持ちたいとか、それとも、将来は政治家になって、日本のリーダになりたいとか」 「女性が日本の首相になるには、まだ二十年以上はかかります」四季の口調は既に平生のものに戻っていた。 「ちょうど良いじゃないか。二十年といったら、君は三十三だ」 「私の夢は、そうですね、いろいろな人生を経験したい。いろいろな人間になって、世界中のあちこちで暮らしたいわ」 「そんなことは簡単だ。今すぐにも実現できるだろう?」 「叔父様と一緒に」 「僕は、そんないろいろな人間にはなれないよ」  またトンネルに入った。  時刻はまだ六時十分。  スピードメータとタコメータの針がほとんど動かない。  たとえば、自分が二十代か三十代の普通の女性で、天才でもなく、そして彼の姪でもなかったら、どうしているだろう? 彼はどうするだろう? 自分は今すぐにでも、そんな人格を装うことが可能だ。彼のためにそうすべきだろうか? 「音楽をかけようか?」 「いいえ」 「もうすぐ、次のインタだ。そこで下りて、食べるところを探そう。何が良い?」 「何でも」 「ところで、何か話があったんじゃあ……」 「ええ、もう少しあとで」      6  メインストリートに面したレストランで食事をした。ワインを注文して、四季はアルコールを飲んだ。新藤は車の運転があるので飲めないと言う。グラスに三杯ほど飲んだものの、あまり美味《おい》しいとは思えなかった。気分は多少高揚した。血液の温度が上がったような錯覚があったこと、そのために、思考の速度が多少遅くなったこと、くらいの影響しか認められなかった。  店内は暖房が効いて暑いくらいだった。とても冬とは思えない。これもワインのせいだろうか。 「さて、これからどうする?」コーヒーを飲みながら彼がきいた。 「海を見にいく」 「海くらい見たことはあるだろう?」 「夜の海はないわ」 「わかった。すぐ近くに確か、ヨットハーバがある。そこへ行こう。ボウリング場とか、ゲームセンタもあったはずだ」 「私を子供だと思っているでしょう?」 「思っているさ」新藤は微笑んだ。「君はまだ子供だ。僕の可愛い姪だ。とても大切に思っているよ」  四季は黙って彼を睨みつけた。  十六種類の言葉を同時に思いついたが、どれもこの場に適当だとは思えなかった。すべてが却下されることは、非常に珍しい。  レストランを出て、再び国道を走り、右折して広い真っ直ぐの道に出た。車の中も暖かい。アルコールの影響が少し広がった。鼓動がいつもよりも明らかに速い。手がとても温かい。  道から乗り上げ、柵の中に入っていくと、広い駐車場のような場所に出る。車が端の方に数台駐車されているだけだった。一定の高さの塀のようなものが遠くに見え、その手前には、真っ直ぐの柱が沢山立っていた。車が近づくと、それがヨットのマストだとわかった。  ガードレールの手前で、車は停車する。エンジンのアイドリング音だけが残った。明るい白いライトが前方で眩しい。桟橋が幾つもあって、ヨットが沢山|繋留《けいりゅう》されている。人の姿も見えた。 「海だよ」 「ええ」 「夜だし」 「ええ」 「降りる?」 「いいえ」 「うん、寒いからね。車の中にいた方が良い」  時刻はまだ八時十五分。 「話を聞こうか?」 「まだ駄目」 「どうして?」 「まだ話せない」 「うん、じゃあ、しかたがないなぁ。もうそろそろ帰ろうか?」 「駄目」 「じゃあ、どうする?」 「どこかで、少し休みたいわ」 「疲れた?」 「ええ、少し」 「車に酔ったのかな。あ、そうか」新藤は心配そうな顔を四季に向ける。「ワインを飲んだからだね?」 「そうかもしれない」 「気持ちが悪い?」 「いいえ、その逆」 「あぁ、それなら良いけれど」 「少し、眠りたいくらい」四季は微笑んだ。「ホテルに泊まらない? この町のホテルに。そして、早起きをして、船に乗るの」 「うーん……」 「お通夜だったら、帰りが遅くても、大丈夫でしょう? 心配だったら、電話をなさったら? 奥様に」 「そんな必要はないよ。誰も心配などしない」 「叔父様だって、お酒が飲みたいでしょう?」 「うん、それは、まあ、そうなんだけどね」 「じゃあ、そうしましょう。ホテルで、飲み直しましょう」 「君、なかなか飲めるんだね」 「さあ、どうかしら」 「兄貴も強いし、そう、義姉《ねえ》さんも飲める方だ」 「私は、どちらも見たことがないわ」 「酔ったところを?」 「ええ」 「僕は……、あるだろう?」 「ええ、院長室で、よく飲まれていますから」 「酔っ払うほど飲んだことはないよ」  思ったとおり、酒の話をしたのが決め手となって、ホテルへ向かうことになった。田舎町だし平日だから予約がなくても大丈夫だろう、と彼は話した。  ヨットハーバから急な坂道を上ったところに、古めかしい建物があった。 「凄い。これがホテル?」 「ああ、けっこう由緒《ゆいしょ》のあるところなんだ。一度泊まってみたかった。ちょっと待っていて、部屋が空いているか、きいてくるよ」  ここまで計算して、スイート・ルームを予約しておくべきだった、と四季は思った。それを考えて一人で笑った。こんなことで自分が笑うことが、また可笑しかった。彼女の中で大勢が笑った。笑い声が広がって、やかましいほどだった。  ロータリィに立っているボーイが、こちらを見ていたので、四季は笑うのをやめる。自分の指を見た。いつもよりも赤いようだ。これもアルコールのせいだろうか。 「大丈夫かい?」突然尋ねられた。 「誰?」 「僕だよ」 「其志雄? 其志雄ね」 「お久しぶり」 「ああ、良かった。もう会えないかと思っていたわ」 「僕もだよ。どうして、ドアが開いたのかな」 「私の躰が、お酒を飲んだせいだと思う」 「そんな簡単なことで?」 「どうして、そんなところへ引き籠もっているの?」 「忘れちゃった」其志雄は笑いながら言った、機嫌が良さそうだ。「森川さんもいるよ」 「え?」 「四季さん、どうもご無沙汰していました。申し訳ありません」 「どうして、こんなところに森川さんが?」 「いえ、どうしてでしょう。でも、ここ以外に、私がいる場所はもうないんです。私の躰はなくなってしまったので」 「そう、可哀想に」四季は言う。 「僕なんて、ずっと躰がないんだよ」 「躰なんて、煩《わずら》わしいだけ」四季は言う。「ない方が身軽だと思えば?」 「どうするのさ、これから」其志雄はきいた。「躰がないとできないことだろう?」 「黙ってて、邪魔をしないでね」 「いいよ、僕は、森川さんと話をしているから。お互いに干渉はなしってことで」 「ええ」四季は頷いた。「でも、嬉しいわ。今度、またゆっくりとお話をしましょう」 「僕は、君のことはだいたい知っているから」 「私は貴方のことを知らないわ。まえとは、逆の立場になったみたいね」 「うん、マスクしているんだ」 「マスク?」 「君がしたんだよ。君は、自分の記憶を消そうとしているだろう? それをあちこちで試している」 「でも、うまくいかないわ」 「うまくいっているんだよ。君がそれを認識できないことが、うまくいっている証拠なんだ」  ホテルの中から新藤が出てきた。 「ちょっと待って、その話はあとで」 「ちぇ」其志雄は舌打ちして、立ち去った。  新藤は運転席には乗り込まず、助手席側に立ち、ドアを開けて四季に降りるように促《うなが》した。 「一部屋空いているそうだ」彼は言った。 「良かった」彼に抱きつきたかったけれど、ボーイが近づいてきたので、彼女は我慢した。 「車を頼む」新藤は、ボーイに言う。 「かしこまりました。キーはお部屋へお届けいたします」  二人はステップを上がり、ロビィへ入っていく。  新藤はエレベータの方へ歩いた。もうチェックインを済ませたのだろう。四季は彼の横について歩いた。エレベータの前にいた制服の女性が頭を下げる。四階へ上がって、通路を歩く。部屋は一番端だった。 「荷物がないからって、案内を断ったんだ。ワインだけは届けてもらうことにしたから」  新藤はキーでドアを開ける。  室内に足を踏み入れると、まず特徴的だったのは、深い絨毯だった。      7  小さなワゴンで、ワインとブランディ、それに氷、その他、ちょっとしたスナック類が運ばれてきた。  最初はワインで乾杯し、途中から、新藤はブランディに氷を入れて飲み始めた。四季は、ワインに少しずつ口をつける程度にして、これ以上に酔わないように注意した。それでも、躰が温かくなって、カーディガンを脱いだ。  全体的にこぢんまりとはしていたが、寝室とは別に一部屋ある優雅な間取りだった。調度品はどれもアンティークで、価値のあるものに見える。キャビネットの上に置かれたクリスタルの時計が十時二十五分を示していた。 「どうしようかと思ったよ。部屋は一つしかないんだ。しかし、きいてみたら、二部屋に分かれているって言う、それじゃあ、僕はソファで寝れば良いかって、そう思ってね。だけど、ドアがないのは誤算だったね」新藤は面白そうに話した。「とにかく、信じてもらうしかないなぁ」  四季は微笑んだまま黙っていた。叔父は既に相当酔っている様子だ。同じ話を、三十分ほどまえに一度聞いていた。  彼女はシャワーを浴びると言って、奥の寝室に入った。バスルームはさらに奥だった。  お湯を躰に当てていると、其志雄が出てきた。 「リビングの天井に蛾《が》が一匹いたね」彼は言った。 「そう? 全然気づかなかった」 「視界が狭くなっているんだ、君は」 「どうして?」 「アルコールのせいだね、きっと」 「でも、それだったら、貴方だって同じでしょう?」 「僕はもともと視界が狭いから、きょろきょろと見回す癖がある。一瞬だけど、君が眠っているうちに、使わせてもらったし」 「私が眠った?」 「ほら、気づいてないね。さっき、そう二秒か、三秒の間だったけれど、君はうたた寝をしていたよ」 「そうだったの。それは気がつかなかった。意識って、それくらいでは不連続に認識されないってことかしら」 「鈍っているときはそうかもね」 「注意しなくては」 「どうするつもりなの? 彼にどうしてもらいたいの?」 「わからない、踏まなければならない段階っていうものがあると思うの。でも、できるだけの前進はしたいわ」 「前進ね」 「そうだ、森川さん、いる?」 「はい」森川須磨が返事をした。 「ねえ、貴女、叔父様とおつき合いがあったのでしょう?」 「ええ」 「それ、叔父様の方が誘ったの、貴女が誘ったの?」 「私です」 「そういうことって、男の人は、嫌がらないもの? いえ、一般論は必要ないわ。叔父様は、嫌がらないと思う?」 「ええ、たぶん」 「森川さんの意見なんて、参考にならないと思うな」其志雄が言う。「だって、ここにいる森川さんは、森川さんとしての記憶を持っていないんだからね」 「そうね」四季は頷いた。「ああ、なんだか緊張してきたわ」 「珍しいことを言う。緊張って、どんなふう?」 「躰がないと、わからない概念」 「そうか、でも、精神が引き起こしている現象でしょう?」 「それは、何だって同じよ」 「大丈夫? 体調は」 「初めてのことで自信はないけれど、たぶん大丈夫」 「無理をしないように」 「変な忠告」四季は笑った。 「君をリラックスさせようと思っただけさ」 「貴方も、しばらく会わないうちに大人になったわ」 「人間だけだよ、大人になるのにこんなに時間がかかるのは」  彼女はバスルームから出ていく。  寝室のベッドに腰掛けた。  叔父は隣の部屋のソファに座っている。  こちらを見ていない。  黙って、待った。  彼はこちらを見ない。 「お話があります」彼女は小さな声で言った。  沈黙。  十数秒後に、叔父が振り向いた。  タイムラグ。 「話してごらん」彼は言った。  なんて冷静な声。  とても真面目な表情に見える。  怒っているみたいな、少し恐い顔だった。 「こちらへ来て」  彼は背中を向けたまま立ち上がり、  数秒間、  片手に持っていたグラスを揺らし、  それをテーブルに戻した。  そして、  ソファを回って、こちらへ。  寝室は暗い。  ベッドサイドのライトは消えている。  四季は白いバスローブを纏《まと》っていた。  彼が入ってくる。  彼女を見た。 「服を着なさい」 「お願いがあります」 「何だい?」  数秒間。  彼は、もう一つのベッドの向こう側に立っている。  時計の秒針の音が聞こえた。 「私に触って」  彼は、少しだけ動いた。 「お願い。触るだけでいいわ」  数秒間。 「どうして、そんなことが必要なのか……、説明……」 「説明できないわ」 「君は……」そのあとの言葉が、単なる呼吸になった。  彼は、ベッドを回り、彼女の前まで来る。 「お願いです」  彼は隣のベッドに腰掛けた。  四季は視線を落とし、自分の膝、そして、彼の脚を見た。  片手はその膝の上に、もう片方は胸の前に。  叔父の手が、彼女の膝の上に伸び、  彼女の片手を掴もうとした。  ゆっくりと。  彼女は、その手を引く。  彼の手が空中で止まった。  数秒間。 「君は普通じゃない」 「私は普通じゃありません」  遅い。  時間は流れているのか。  なんという鈍重さ。  じっと待っているこのエネルギィで、  死にそうなくらい、辛《つら》い。  ピストルがあったら、  時計を撃ち殺していただろう。  彼の手を、  掴もうとした。  両手で。  動いたのは、彼女の躰。  立ち上がり、叔父の躰に飛び込んだ。  しがみつき、  強く、  縋《すが》りつき、  激しく、  捩《ねじ》れながら、  縺《もつ》れながら、  押し上げ、  引っ張り、  倒れていく。  呼吸。  言葉はなく、  声もなく、  ただ、  お互いの息が交叉し、  四本の手が、求めて、  あるべきものを、  滑らかさを、  痺《しび》れるような膨張感を、  押さえ込もうとした。  殺すように。  動きが止まったときには、  反動の呼吸の音だけが残留し、  数秒間。  四季は、ベッドの上に仰向けになり、天井を見た。  叔父の顔が彼女の胸の上にあって、  彼の体重が、邪悪な振動を止めているかのようだった。  冷たい彼の手が、彼女の胸に触れた。  熱を奪われ、収縮しそうなくらい染みる。  彼女は目を瞑った。  もっと別の熱が、  別のところで感じられた。  変換。  展開。  収斂《しゅうれん》。  漸近《ぜんきん》。  精神は軽浮《けいふ》、彷徨《さまよ》い、部屋の片隅へ逃げ込む。  躰は敏活《びんかつ》、懊悩《おうのう》へ沈み落ち、シーツに形を預ける。  驚いたことに、何も、考えていない。  四季の中で、誰も考えていない。  黙っていた。  みんな、黙っていた。 [#改ページ] 第5章 冷徹と敏捷その格調 [#ここから5字下げ] ですからまた、鬼神《ダイモーン》の業に関してすぐれた人は、|鬼神のごとき《ダイモニオンな》人、しかし、他のことに——たとえば、さまざまな技術、あるいは手工の技に——すぐれたる人は、世俗の人にほかなりません。そして、世には、かかる鬼神《ダイモーン》の数も多く、種類もさまざまあるのですが、|愛の神《エロース》というのも、まことにそれら鬼神《ダイモーン》の一つにほかなりません。 [#ここで字下げ終わり]      1  また夏が来る。  妃真加島の研究所の工事はほぼ終了していた。しかし、それは建築の話であって、研究設備関係のもの、特に各種の情報機器の搬入・設置はまだこれからだった。  真賀田左千朗は大学を辞職し、この研究所の所長になる予定である。否、既になっていたかもしれない。いつ発足させるのか、いつから研究所がスタートするのか、そういった形式的なことには、ほとんどの者が興味がなかった。研究所のスタッフのうち二割ほどが、既に島へやってきて、最後の小さな工事に対して指示を与えているらしい。  真賀田左千朗も、大部分の荷物を運び込み、研究所で暮らしている。四季だけが少数のスタッフたちとともに、自宅にまだ残っていた。仕事が順調に進んでいたので、引越のために中断したくなかったからだ。  左千朗が不在の自宅へは、ときどき母親、美千代が訪ねてきた。彼女の荷物は既にここにはない。今回の研究所への引越にも、美千代はついていかないだろう。少なくとも、そんな気配はなかった。  今夜も、彼女はパイ菓子を持って訪ねてきた。土産を持ってくることで、もう自分はここの人間ではないということを示そうとしているようだった。 「私が行かないから、研究所のセレモニィも一切やらないことになったみたい」美千代は言った。「まだ、あの人はそういう見栄を張っているんです」 「それは、お母様も同じだわ」四季は指摘した。 「そうね」彼女は頷き、一瞬だけ悲しい表情を見せたが、すぐに微笑みを取り戻した。「いつ、あちらへ移動するつもり?」 「来週の週末には」 「そのときには、私も一緒に行こうかな」 「是非、いらっしゃって下さい」四季は頷いた。「とても良いところです。海水浴もできるのよ」 「そりゃあ、海だったらできるでしょう」彼女は笑った。「それよりも、貴女、体調は大丈夫、お仕事のし過ぎじゃない?」 「いいえ、ご心配なく」 「でも、向こうでさっき聞いたのよ、昨日の夜、具合が悪そうだったって。何を食べたの?」 「ええ、昨夜は、みんなが食事に出るのに、ついていったの。ラーメンのお店。とても面白かったわ」 「慣れないものを食べたから?」 「ええ……」 「気をつけて下さいね」母親は心配そうに目を細める。  四季は相手を安心させるための表情をつくった。  真賀田美千代は最近忙しそうだ。専門外のことでも、テレビや雑誌などにしばしば登場している。天才少女を産み、育てた母親として、また、一流の学者として、さらに、その衰えぬ美貌もあって、マスコミが放っておかなかった。おそらく、真賀田左千朗との不仲も、既に周知のことだろう。離婚となれば、またそれが記事になる、と期待しているのかもしれない。  四季は、しかし、両親のことについては関心を失っていた。家族で過ごすことに意味があるとも思えない。父親と母親は、既に自分とは切り離された人格である。世界中で、彼女の外側にいる人間の中で、ただ一人、新藤清二だけが、彼女の興味の対象だった。その他の人間たちは、つまりは自然環境と同じレベルのもの、あるいは人工物、建物や機械や書物などと同じ存在だった。  母親を玄関まで見送ったあと、隣の部屋で待っていた各務亜樹良を自室に招き入れた。 「こんばんは」ドアを閉めて、各務は頭を下げる。 「どうぞ、そこに座って」四季はデスクの前のソファを片手で示した。「お待たせしてすみません」 「いえ、とんでもない」各務はテーブルの上に置かれた包装箱を見る。「お母様でしたか?」 「ええ」四季は頷く。 「以前のときには、何もありませんでしたが、もう一度調査をしてみましょうか?」 「どうして?」 「私が見たかぎりでは、最近、装いの趣味を変えられました。テレビに出演するために新しいスタイリストを雇われたのか、あるいは……」 「新しい男ができたのか?」四季は椅子にもたれ、脚を組みながら言った。 「そういうことをおっしゃるようになりましたね、四季様も」 「世間擦れしたって言いたいのね?」四季は微笑んだ。 「必要のないことかもしれませんが、ある意味では、そういったバランスが、最終的な人間の耐久性に効きます」 「面白いことを言うわね」四季はじっと各務を見つめる。「貴女の経験ね? 是非、伺いたいものだわ」 「ご勘弁下さい」各務は軽く頭を下げる。「今夜は、実は、ご挨拶に参りました」 「挨拶?」 「はい、しばらく、いえ……、きっと、ずっとだと思いますが、私は、この仕事から離れようと思います」 「どういうこと? もう、ここへ来ないって言うの?」 「そうです。私の代わりの者が参ります。私より若く、非常に優秀な人間です」 「許可できません」四季は首をふった。「急にそんなことを言われても困ります」 「どうか、お許し下さい」 「理由を言って」 「彼が南米にいることがわかりました。私は、彼のところへ行きます」 「彼って、あの人?」 「そうです。四季様とお話をしたそうですね」 「私の首を絞めて、私を縛った人です」 「大変申し訳ないことをいたしました」 「貴女がしたわけじゃないわ」四季は溜息をついた。「彼のことが、そんなに大切?」 「はい」各務は表情を崩さず、じっと四季を見つめている。力のある視線だった。 「私のことを見捨てていくのですね?」四季は言う。その言葉を選ぶことに半分は反対したが。 「私と同等の働きをする者が、代わりに来ます」 「それは無理です。私には、貴女が必要です」 「とても遠い場所へ行くのです。もちろん、こちらへ伺うことはできますが、そんな状態ではご迷惑をおかけするだけです。消えていなくなるわけではありません。連絡はいつでも取れるようにいたします。どうか、お許しをいただけないでしょうか」 「わかりました」四季は頷いた。「しかたがないわ」 「ありがとうございます」各務は頭を下げる。「もう、プロジェクトは軌道に乗りつつあります。最初の契約で一年間は大丈夫でしょう。そこでまた、新たな契約を結ぶことになります。そのときまでに、手持ちの駒を揃えておくことが、当面の課題だと思います」 「私は自分の環境さえ維持できれば、お金儲けには興味はありません」 「ご両親とも、お忙しいうえ、やはり四季様と同じで、そういった方面にはご興味がないようです。しかし、これからは、おそらく莫大な資産を管理する必要がどうしても生じます。どなたか身内の方に、資産運用面の管理をしていただいた方が自然と思われます」 「身内って、たとえば?」 「新藤様」 「そういうことね」四季は頷いた。「けれど、彼も病院を継ぐためにわざわざ養子になったのですから、また戻って、真賀田家の切り盛りをするなんて、とても無理でしょう。世間体を気にする人ですから」 「あの方には、その才能があります」 「そう」四季は頷いた。「でも、貴女にはかなわないわ」 「私は、四季様の生み出す価値を、お金に換えただけです。多くの場合、その価値は、私よりも買い手の方がより正しく評価していました。私は何もしていません」 「お兄様が、伯母様を殺したことを知っているのは、誰?」 「はい」各務は顎を引き、上目遣いに四季を見つめた。「私の組織から、それが外に漏れ出ることは、絶対にありません。それは、私の組織が四季様から受ける利潤のためです。組織以外の人間では、ご両親、新藤様、そして四季様の四人だけです。もう六年になりますが、どこからも、危険な兆候は見られません。ご心配には及ばないものと思います」 「ありがとう」 「ありがとうございます」各務は立ち上がった。「では、これでお別れです」 「最初に会ったのは、どこだったか覚えている?」 「はい、回転木馬です」 「そう」 「どうか、握手を」各務は片手を出した。  四季は、彼女の手を握った。 「貴女に相談したいことがあったのだけれど……」四季は言う。  どうして、そんな言葉を口にしたのか、即座に自己分析した。 「お聞きしましょうか?」 「いえ」四季は首をふる。「大したことではありません」      2  翌週の金曜日に、仕事が一段落ついた。予定どおりだった。自宅に詰めていたスタッフたちは、引越のために装置を分解し、資料を箱に詰めた。四季は、衣料品や僅かな生活用品以外に自分の荷物がなかった。箱には既に収まっている。彼女は明日の引越にはつき合わず、荷物の処理だけを頼んで、一人で家を出た。  世間というトンネルを、自分一人だけで抜けていくことが、少しスリリングで面白そうだったからだ。帽子にサングラス、Tシャツにジーパン、荷物は小さなナップサックだけ。そんな初めての格好で、彼女は出かけた。  街を歩き、駅の構内を歩き、人の流れの中を歩き、そして、電車に乗った。人、人、人。周囲には沢山の人間がいる。車窓から眺める景色は、どれも人間が作ったものばかり。建設中の工事現場も多い。それぞれに動いている、プログラムでもないのに。  曖昧な判断の積み重ねで、社会は作られているようだ。  空を横切る太陽のような精確さを、誰も求めていない。  判断をしない、考えない、  関わらない、知らない振りをする、  それでも、みんながここに集まって、  こんなに接近して、生きているのだ。  ほとんど、身を寄せ合っているに等しいのに、  大多数は他人、名前も知らない、話をしたこともない。  言葉と信号。  記録と再生。  コミュニケーションを複雑化して、  絡みつくネットワークに、善意の集結を夢見ている。  どうして、ここまで善良なのか。  しかし、アスファルトだって、鉄だって、善良だ。  この世に、邪悪なものはない。  邪悪さを知らないのだ。  新幹線に乗り換える。  今度は窓際に座ることができた。  隣のシートに外国人が座った。スーツを着たビジネスマンふうの男だった。仲間が通路の反対側にもいる。彼だけ席が分かれた様子。  四季の方を見て微笑んだ。何か話したそうだったが、面倒だったので彼女は眠る振りをして、窓の方へ顔を向けていた。  風景が面白い。  線路脇の設備も、架線柱の構造も。  山手にさしかかると、トンネルがある。  傾斜地を支持するための工法も楽しい。  一面に開けた平らな土地は、ほとんどが水田だった。  眩しい夏の光。  車内はクーラが効いているが、外はきっと暑いだろう。  今日はどこも天気が良さそうだ。  あとでその炎天下へ出ていくことを考えて、今のうちに眠っておこうか、それとも、アルコールを飲んで、其志雄と話をしようか。  結局眠ることもなく、また何も飲まず、一時間半ほどで、彼女が降りる駅に到着した。  ホームから階段を下り、別のホームへ向かう。ここからが、まだ長い。  喉が渇いたので、自販機で飲みものを買った。ベンチに腰掛けてそれを飲んだ。中学生の集団が少し離れたところに十人ほどいて、こちらを見ている。四季は立ち上がり、別の場所へ移動した。飲み終わった頃に電車が到着し、彼女はそれに乗り込む。吊革に掴まって立った。  左右に無駄に動きながら、電車は快走する。車内の多くの人々は黙って乗っている。おしゃべりをしている一組が、少し離れたところに座っていた。全員がその会話を聞いているのだろうか。  何もインプットしない。  何もアウトプットしない。  単なる燃焼だけの生命がほとんどだ。  抵抗もせず、  攻撃もしない。  流れるままに生きる生命がほとんどだ。  自分たちの創り上げたものにも無関心。  それどころか、自分は歴史には無関係だと信じている。  戦争を嫌い、  犯罪を嫌い、  自分には何もできない、  自分はこんな人間です、と諦める。  食べることだけに喜びを見出しているようにさえ見える生命。  酸化するだけのプログラム。  針のない時計、アイドリング中の車、スイッチを消し忘れた機械、水車、風車、風見鶏、すなわち、最初は何かしようとしたはずなのに、何もしなくても生きていけることを知ってしまった生命たち。  エネルギィを浪費するだけの仕組み。  そんな膨大な無駄を抱えている、この社会。  とにかく、到達してしまった技術の前に、人の数が多すぎる。  自分たちを増やしすぎた。  気分が悪くなってきた。  電車の揺れで、少し酔ったかもしれない。  次の駅で一度降り、駅のトイレに入った。  洗面所で少しだけ吐いた。  しかし、それほど苦しいわけではない。  次の電車は三十五分もあとだった。  四季は、小さな知らない町を、少し歩くことにした。この町では目立つと考え、サングラスは外すことにする。駅前の商店街は、木造の古びた建物群だった。  空腹感はないけれど、そういえば朝から何も食べていない。最初に行き着いた食事ができそうな店に入る。客はいない。時刻は午後三時。老婆が冷たいお茶を持って出てきた。四季は饂飩《うどん》を注文した。  薄汚れた窓から表の通りが見える。  向かいの魚屋に客が三人いた。店の者の声がここまで聞こえてきた。その隣は、金物屋だった。主人らしき男が、店先に椅子を出し、そこに座って新聞を読んでいる。店の中には黒い犬が眠っていた。  通り過ぎる人間たちを観察し、それぞれの人生を想像した。こんな無駄な思考に時間を費やしたのは初めての経験で、斬新だった。  饂飩は奇妙な味がしたが、不味《まず》くはなかった。半分ほど食べて、その店を出た。魚屋も少し覗こうと思ったものの、匂いが我慢できない。とても近づけなかった。彼女は隣の金物屋に入った。  狭い店内で品物を眺めていると、表に出ていた主人が入ってきた。 「何をお探しですかね?」 「えっと、ナイフを」四季は答えた。 「どんな?」 「どんなものがありますか?」 「いろいろありますよ。カッタナイフから、もっと大きい包丁のようなもんまで。何に使われるのかね?」 「キャンプで使うの。山菜を採ったり、魚を捌《さば》いたり」 「ああ、そういうのは、高いですよ」 「ありますか?」  主人は棚のガラス戸を開けて、積まれている箱から、一つを取り出した。蓋を開けると中に二十センチほどの登山ナイフが収まっている。 「いくらですか?」 「えっと、四千五百五十円だね」 「では、それをいただいていきます」 「あ、どうも……。五十円おまけしましょう」  箱を紙に包んでもらう間も、四季は商品を眺めていた。一見使い道が不明な道具もあったが、どれも何らかの意図で設計されているもの、あるいは、昔からその形で受け継がれてきたものだろう。 「はい、どうぞ」商品を差し出される。  お金を支払い、礼を言う主人の声を後ろに、彼女は店を出た。  駅に戻ると、タイミング良く、次の電車が入ってきた。      3  その後も、二度電車を乗り換えた。最後は私鉄に乗り、田園の中を走った。平日の夕方である。客は少なく、老人の割合が多かった。  最後に降りた駅も小さい。駅前には、タクシー乗り場の看板だけがあって、タクシーは一台もいなかった。バス停も、料亭の看板もどれも錆びついている。案内板を見つけ、それほど遠くないことがわかったので歩くことにした。  川沿いの道を流れと同じ方向へ下った。川の幅は十メートルくらいで、堤防も三メートルほどの高さしかない。道の下はずっと遠くまで田園が広がり、樹木と建物が点在している。日差しを遮《さえぎ》るものがなく、とても暑かった。  奇妙な連続音が聞こえ、しばらく歩くと、それが船のエンジン音だとわかった。小さな船が川を上ってくる。橋の下を潜り抜け、四季の横を通って、さらに上っていった。何のための船だろう。目的はわからない。  橋は、道路を渡していて、そこに信号があった。しかし、車はほとんど見かけない。  近くにバス停と、簡易な待合い所があった。ガードレールの端が捩《ねじ》れている。アスファルトの隙間から雑草が伸びていた。  道路を横断し、さらに川沿いの道を進む。ようやく目的地ちしきものが見えてきた。船着き場だ。まだ川の途中で、海の堤防はずっと先である。  船着き場の建物は、堤防を内側へ降りたところにあった。小屋の中に女性の従業員が一人だけ。四季の方をじろじろと見た。 「どちらへ?」 「妃真加島へ行きたいのです」 「ああ、次の船に乗んなさい」  時刻表を見てみると、それは別の島へ行く船のようだ。 「途中でな、妃真加島に寄ってくれるんよ」従業員が笑いながら説明をしてくれた。 「ここんとこ、多いんだ。工事の見学で。あんたも、どこかの学生さんかね?」 「あ、ええ」 「偉いねえ」  船が来るまでに、乗客は他に三人集まった。オープンデッキの小さな船が川を上ってきて、船着き場の手前で方向転換する。桟橋に軽くぶつかり、人間が脚で押して、方向を修正した。ロープが掛けられ、アルミの板が渡される。そこから乗船した。  船が走り始めると、その風で多少は凌《しの》ぎやすくなった。また喉が渇いたけれど、もちろん今は何も飲めない。シートに腰掛け、堤防から海へ出ていく船首方向を眺めていた。海は穏やかで平らなのに、船は電車や自動車よりも揺れた。  海は世界中につながっているとよく言われるが、内陸までは船では到達できない。それに比べて、大気は本当に世界の隅々までつながっている。見えるものと、見えないものの差は大きい。不思議なことに、存在するものと、存在しないものの差よりも、ずっと大きいようだ。  乗客たちは知り合いどうしらしい。ずっとしゃべり続けていた。この地方の方言だろう、ときどき聞き取れない言葉がある。四季は再びサングラスを取り出して、それをかけた。眩しかったことと、目に風が当たるのを防ぐためだ。少し躰は疲れているようだった。いつも座っているか横になっていることがほとんどで、こんなに立ったり、歩いたりする時間が長い日はこれまでになかっただろう。スキャンしてみたが、見当たらない。  エンジンの音は一定。  海と空と、僅かな雲と。  ときどき小さな船、そして鳥。  陸地は遠く細く霞んで。  丸い世界の中心にいる。  六つの新しい感覚を認識した。  このところの新しい概念の発見は、しかし言葉に還元することが難しい。既に言葉の数を超えた細分化の領域へ、彼女の意識は到達している。そういった場合には、自分だけの言葉を生み出すか、あるいは、そのニュアンスを抽象のままそっくり記憶するかしか方法はない。世の中には、そういった例は多い。たとえば、すべての色に名称があるわけではない。色は無限にあるが、数から整数を取り出すように、ところどころの段階を共通的に扱う以外にない。共通的なものには、少なくとも、名前かナンバがつけられるけれど、個人のものには、名称がない。ベッドカバーの色、といった認識で記憶されるものは、しかし、実際には記号化されるだけで、色の記憶は精確にはなされていない。平均的な人間の映像記憶の解像度はそれほど高くないようだ。形でさえ、大きさでさえ、ほとんど精確には再現できないといっても良い。そんな曖昧な識別能力しか持たないのに、他人の顔を見分けられることは驚異的である。どうして、自分たちの識別にだけ、これほど高い能力を発揮できるのだろう。つまりは、それが必要で、そのためのニューラルネットが脳内に形成されるからだ。人の顔を機械が識別できるようになるのに、あと何十年かかるだろう。メモリはどれくらい必要か。処理能力は最低でも、現在の計算機の一万五千倍は欲しい。ハードがそのレベルに到達するのにあと二十年。ソフトはさらに十年。何故なら、ソフトは、ハードのように一本の道ではない。技術の体系それ自体が、ニューラルネットと同様である。どこで、どう結びつくのか、予測は極めて難しい。  自分の影を見ていたが、その動きで、船の方角が変わったことがわかった。前を覗き見ると、島が見えた。 「キャンプに行きなさるのかね?」乗客の一人、メガネをかけた女性が話しかけてきた。五十代だろうか。大きなクーラボックスが足許に置かれている。 「あ、ええ……」四季は頷き、微笑み返す。 「どこから来なさったん?」 「那古野からです」近い方が驚かれずに済む。 「高校生?」 「はい」四季は適当に返事をする。 「一人で?」 「いいえ、あの、お友達がさきに行っているんです」 「ああ、そうかね」相手は安心したようだった。  自分の生活に影響が及ばない範囲の心配をするのは、いったいどういうわけだろうか。自分が立ち去ったあとのストーリィを想像して、怒ったり悲しんだりする傾向も、一般的に多く観察される。それなのに、まったくすべてを想像して、怒ったり悲しんだりはしない。実在することは確かなのに、その実在の一部に触れないかぎり、発想さえしようとしない。  こういった傾向は、しかし、精神の安定性には寄与している。おそらくは、楽観的な遺伝子が自然淘汰の中で生き残ったためだろう。  船は堤防の中へ入っていった。コンクリートの堤防と船着き場。近くに建物はない。船もない。鉄道でいえば無人駅だ。  四季一人のためだけに船員は船を桟橋に繋ぎ、渡り板を置いてくれた。彼女は礼を言って、船を降りた。メガネの女性が片手を振っていたので、四季はそれに応えた。      4  船着き場からは道は一本しかない。案内図が描かれた看板が立っていて、途中でキャンプ場と海水浴ができる浜辺へ分岐する経路が示されていた。もちろん、研究所のことは書かれていない。だいたいの位置はわかっていたし、島はとても小さい。とにかく、歩き始めることにする。以前に叔父と歩いた浜が、海水浴場だったはず。そちらの方向だろう。歩いているうちに、見えてくるかもしれない。後方からは、遠ざかっていく船のエンジン音が聞こえた。  生い茂る樹々のトンネルの中へ道は続いていた。木陰はとても涼しくて気持ちが良かった。六時を回っているが、とてもそんな時刻には思えない。周囲に山がなく、太陽を遮るものがないためだろう。  この島に、自分一人だけだったら、良かったのに、と思いついた。誰も近づけないで、自分だけで生きていく、それも面白そうだ。雑多なことに気を遣う必要もなく、いろいろな自分と対話して、自分の精神空間を隅々まで見てみたい。世界旅行をするよりも、ずっと楽しいだろう。良い考えだ、と彼女は思った。  これまで、一人になろうという発想はあまりなかった。何故か。それは、彼女を生かしてくれている人たちの存在があったからだ。一人では生きられない。しかし、今は、つまり、ある程度の力を手に入れた今ならば、それが可能かもしれない。  人が恋しいという感情も、最近では克服できたと判断していた。そう、新藤清二とのことが、最後のハードルだったのだ。あれで吹っ切れた、と分析できる。  凸凹の歩きにくい道を、上っていった。今日一日で、ずいぶん日焼けをしたようだ。皮膚に少し違和感がある。プールに飛び込みたいと思った。研究所にプールはない。設計に入れておけば良かった。そうか、これが後悔か。四季は少し笑った。  彼女は海に入ったことがない。どうも、あの水溶液の中に躰を浸す気にはなれなかった。科学的な根拠も二十数例挙げることができる。  シャワーのとき、バスタブに水を溜めて、プールのつもりで入ってみよう、というアイデアを思いついた。楽しみだ。アクアラングを取り寄せよう。もう少し深さのあるバスタブがあればもっと良い。そうだ、水槽を買おう。自分が入るための水槽を。どこに置けば良いだろうか?  前方からエンジン音が聞こえ、やがて四輪駆動車がゆっくりと近づいてきた。男が一人乗っている。  四季は道の脇に退いた。しかし、車は彼女の手前で停まった。  男が運転席から降りてくる。 「良かった……、お迎えに参りました」 「私を?」四季は首を傾げる。  男は身分と名前を名乗った。研究所の建設を請け負った会社の人間のようだ。車を運転できる人間として、選ばれたのだろう。  彼の説明によると、真賀田左千朗が、自宅へ電話をかけて、四季が出かけたことを知り、その後、方々へ電話をかけて、彼女の行方を追ったらしい。駅や船着き場へも問い合わせ、最後に、船に乗り込んだことが判明した。それで、彼を迎えに寄こしたのだった。 「ここから、どれくらいですか?」四季は尋ねた。 「車ならすぐです」 「いえ、歩いて」 「歩くと、まだ十五分か二十分はかかります。あの、どうぞ乗って下さい。お送りいたします」 「歩いていっては駄目?」 「お願いします。それでは、私が叱られます」  四季は頷いて、車の助手席に乗り込んだ。座席の高い車だ。  運転手は何も話さなかった。緊張している様子である。  研究所にはすぐに到着した。まえに見たときよりも、ずっと単純な形に落ち着いていた。周囲も既に片づいている。工事車両も少ない。あれだけの機器を運び出すのは大変だっただろう。  窓のない建物である。  非常に大規模だが、平坦な壁面のため、一見してそのスケールを掴みづらい。  ロータ音が聞こえ、見上げると、ヘリコプタが近づいてくるのが見えた。以前は南側に仮のヘリポートが設けられていたが、今は研究所の屋上に発着できるはずだ。  玄関の自動ドアを抜け、ロビィに入ると、真賀田左千朗が待っていた。 「ああ、良かった、無事で」両手を広げて四季に近づいてくる。  彼女を送り届けてくれた青年は、通路を左手の奥へ入っていった。そちらで、まだ工事をしているのだろうか。 「急に思いついたのです」四季は説明する。「一人で、ゆっくりと来たかったので」 「連絡してくれれば良かったのに」 「ごめんなさい、お父様」 「さあ、では、こちらへ」左千朗は歩き始める。  人工的な空間で、もう暑くはない。季節からは絶縁された場所だ。非常に緩やかなスロープを下りる。地下のフロアも同じ雰囲気だった。ドアは原色に塗られている。その他には、何のサインもなかった。  長い通路を進み、一番奥に近い位置まで来た。そこに、真賀田家の住居スペースが作られている。四季は図面でしか見ていなかったが、どこも想像どおりに出来上がっていた。 「明日、美千代と、それから清二がやってくるよ」 「え、本当?」四季は驚いた。 「内輪だけで、ちょっとしたお祝いをしようと思ってね」 「何の?」 「いや、ここの研究所の竣工祝いかな」 「まだ、工事が残っているのでは?」 「では、引越祝いにしよう」 「私の? お父様は、ずっとまえから、ここにいらっしゃるわ」 「そうだ、四季がここへ来た。竜の瞳を描き込むようなものだね」 「画竜点睛《がりょうてんせい》? でも、瞳を描き込んだら、竜は天に昇ってしまうのでは?」  左千朗は笑った。その笑い声が部屋に響いた。 「しばらく、家族で食事なんてできなかったから。うん、良い機会だと思ったんだ」 「ええ。もう一つ良い名目があります。明日は、叔父様のお誕生日です」 「ああ、そうだな……。気がつかなかった。では、それも兼ねてパーティをしよう」      5  既に、四季のスタッフたちは研究所に到着していた。その夜、彼らは浜辺で花火をした。四季はそれを見にいった。みんなアルコールを飲んでいたが、彼女は飲まなかった。  早々に引き上げ、新しいベッドで眠った。  翌朝、また気分が悪くなって、目が醒めた。外の空気が吸いたくなり、屋上へ上がると、ヘリコプタが到着した。残念ながら、新藤清二は乗っていなかった。工事の関係者と、資料を運んできた研究所のメンバだった。船着き場に荷物が届くため、四季のスタッフたちはトラックを運転して出かけていった。  昼頃、父親から食事を誘われたが、断った。何も食べたくなかった。午後には、スタッフたちの部屋を見にいった。装置の接続で手こずっている。ケーブルがどの箱に入っているか、ソケットの接点が折れてしまった、移動中にバッテリィが外れてメモリィが駄目になった、そんなトラブルが続出だった。ハードディスクも慎重にチェックされた。 「本当に、計算機がこれくらいになって」太ったリーダが両手の指で大きさを示す。「持ち運びができるようになるのに、何年くらいかかるでしょうね」 「五年後には、製品になるわ」四季は答えた。「普及するのに三年、さらに、それが標準になるのに、あと六年」 「それまで、首にならないように、頑張りますよ」  夕方になって、母親と叔父がヘリコプタで到着するという連絡があった。四季は時間を見計らって、屋上へ迎えに出た。  少し風が吹いていた。まだ遠いものの、台風の影響である。ヘリは無事に着陸し、新藤清二が降りてきた。彼は、真賀田美千代に手を差し伸べ、彼女が降りるのをサポートした。二人は、四季の前まで来て、微笑んだ。 「昨日は、行方不明だったんだって?」新藤が言った。「兄貴から何度も電話がかかってきたよ」 「私のところへも」美千代も笑った。「あの人、疑心暗鬼になっているのよ、貴女のことで」  それは、軽度だが正確な洞察だ、と四季も思った。  新藤は手に持っていた大きな紙袋から、花束を取り出した。 「はい、君に」  真っ赤な小さな花が四十九。四季は一瞬でそれを数えた。 「嬉しい」彼女は笑顔でそれを受け取る。  三人はエレベータに乗り、地下の住居スペースへ降りた。 「窓がない建物だなんて、信じられないわ」美千代はエレベータの中でオーバに眉を顰《ひそ》めた。「エレベータだって、ぎりぎり、我慢の限界なんだから」 「カーテンだけでも、かけておけば良いのでは?」新藤が言う。「窓があるって錯覚できる」  食材は既に揃っていたが、ワインとシャンパンは、新藤が新しいものを持ち込んだ。  真新しいキッチンに、美千代と四季が入った。新藤と左千朗は別の部屋で話をしている。 「あの人のために料理を作るのは、今日が最後ね」美千代は笑いながら言った。「もちろん、今日だって、本当は貴女のためよ」 「あまり、意識をなさらない方が良いわ」四季は首をふった。「お母様は、ご自分を説得しようとされているのよ」  美千代は黙ってしまった。パスタのソースを作ろうとしている。四季はサラダを作った。  途中で一度、左千朗が覗きにきた。 「手伝おうか?」彼はきいた。にこやかな表情だった。 「いいえ、おかまいなく」美千代が答える。 「これが、毎日の日常だったら、良かったんだが」  美千代はまた黙ってしまった。  左千朗は四季を見つめ、目を細めて微笑んでから、戻っていった。  彼自身も、こんな日常を望んではいないことを四季は知っている。 「冷蔵庫のローストビーフを切ってもらえる?」美千代が言った。  四季は冷蔵庫からそれを取り出し、包丁を持った。  四枚切ったところで、その肉の断面を見たくなくなった。  包丁を置き、水を流して手を洗った。 「どうしたの?」美千代がきく。 「いえ、ちょっと、気分が悪くて……」  そう言った途端に、吐き気を催した。  彼女は口に手を当て、バスルームへ急いだ。  少し遅れて、美千代がやってきた。 「大丈夫?」 「ええ、何でもないわ」四季は明るく装った。「昨日食べた饂飩が合わなかったみたい」 「饂飩?」 「ええ、怪しい感じだったから」 「疲れているんじゃない? 向こうで少し休んでいらっしゃい」 「ええ」四季は頷く。  彼女用の寝室へ行き、ベッドで横になった。部屋もベッドもシーツも何もかも真新しい。  少し眠ろうとした。  しかし、眠れない。  叔父が持ってきた花束、その四十九の赤い花の座標値を頭の中で確認した。それらの重心を求め、組合せベクトルの内積を次々に求めた。そうした無駄な計算をしても、眠れなかった。  結局のところ、精神が躰を支配しているようで、実は、精神は躰に隷属しているのだ。瀬在丸紅子が行き着いた袋小路がこれなのだ。彼女は新しい生命のために、自分を折った。その歪《ひず》みが、彼女をあそこまで鈍らせ、また、彼女をあそこまで生きさせたのだろう。  自分は、そうはいかない。  この程度のことは小事。  躰の不調は、まったく取るに足りない。  躰だけのことだ。  死んでしまえば良いのだ。  それだけのこと。  電源が落ちた計算機のように、一瞬で揮発すれば良い。  それが理想ではないか。      6  ダイニングに男たちを呼んで、食事になった。  ワイングラスに赤い液体が揺れる。  食べるものも飲むものも、すべて作られたもの。  和やかな雰囲気も、この部屋のように作られたもの。  家族も、血縁も、生まれてしまったあとには、無関係。  それは、死んでしまったものが、無関係なのと同じ。  一番よく話したのは真賀田左千朗で、四季の小さい頃の話を持ち出した。その話ならば、美千代が口をきいてくれるという気持ちだったのだろう。しかし、美千代は微笑んでいるだけで、作り笑いをしているだけで、ほとんど何もしゃべらなかった。気を利かせて新藤清二が話す。 「そう、面白いものを持ってきたよ」彼は、壁際にある荷物のところへ行き、袋から人形を取り出した。布製で、枕のように扁平だった。「これ、君が小さいときに持っていたものだ」 「それを持っていたのは、三日だけです」四季は答えた。「せっかく叔母様からいただいたものだったので、彼女のために、しばらく持ち歩こうと思ったの」  三人は笑った。  四季は笑っている新藤をじっと見ていた。  途中で電話がかかり、四季が席を立って応対した。 「もしもし、真賀田です」 「あ、四季さんね? 裕見子です。こんばんは」新藤裕見子の明るい声だった。「あの、今、私、そちらへ向かっているの。あと、そうね、もう三十分で飛行場に到着して、あとは、ヘリコプタで二十分くらいかしら?」 「ええ、それくらいですね。あの、叔父様に替わります」 「いいえ、びっくりさせてやりたいから、黙っておいて、今日は、あの人の誕生日でしょう?」 「はい、そうです。今、みんなでお食事をしています」 「じゃあ、あとでね」 「はい、では……」  テーブルに戻ると、電話先を左千朗が尋ねた。四季は、スタッフの一人だと嘘をついた。  美千代が立ち上がって、テーブルの上の皿を片づけ始める。料理はまだ残っていたが、もう誰も手をつけなかった。左千朗の隣に四季、四季の正面に新藤、その隣が美千代の席だった。  珍しく沈黙が続いた。 「叔父様、お誕生日おめでとうございます」四季は少しだけ躰を前に倒し、彼に囁くような声で言った。 「ああ、そうだった」左千朗が大きな声で言う。「じゃあ、乾杯をし直そう。おい、美千代、こちらへ来なさい」  美千代も戻ってきて、全員が片手にグラスを持った。 「おめでとう」左千朗が言い、テーブルの上でグラスを寄せ合う。四季と叔父のグラスが高い音を立てた。 「いくつになるの?」美千代が隣の新藤に尋ねる。 「三十七です」彼は答えた。 「若いわねぇ」彼女は笑う。  四季はグラスを置いて、両手を膝の上に置いた。両親の方へ等しく躰を向ける。 「お父様、お母様、ご報告があります」彼女は言った。 「なんだい、改まって」左千朗が言う。 「たぶん間違いないと思います。私、妊娠しました」  父親の顔は一瞬、笑った。  それから、口を開け、そして目を見開いた。  母親は、片手を口に当て、 「貴女……」とだけ囁いた。  両親は、一度だけお互いに顔を見合った。  叔父は、表情をこわばらせ、睨むような視線を四季に向けた。 「誰の子だ?」低い声で、父親が尋ねる。 「私の子です」四季は答えた。 「そんなことをきいているんじゃない」 「では、何をお尋ねでしょうか?」四季は軽く首を傾げる。  沈黙。 「ちょっと、貴女……、四季さん」母親は立ち上がろうとする。「こちらへいらっしゃい。私が話を聞きます」 「待て」父親がそれを制する。  誰ももう、グラスを持っていない。  静かな空間。  空調機の音が聞こえた。  四季は、三人を観察した。  共通しているのは、驚き、次に、憤《いきどお》り、そして、後悔? 「誰だ?」父親がきいた。 「それは問題ではありません」四季は答える。 「どうして、そんなことをしたの?」母親の目から涙が零《こぼ》れ始める。「なんで、そんな軽率な……」 「お母様、お言葉を返すようですが、軽率ではありません。私は充分に考慮し判断しました」 「お前はまだ子供だ」父親が言う。 「しかし、それ以前に、個としての人間です。お父様が社会的通例を適用されようとなさるのでしたら、その通例の枠内には私がいないことを証明いたします」 「そういう問題ではない」 「では、どういう問題でしょうか?」 「貴女の躰が心配で、言っているのです!」母親が立ち上がり、叫んだ。「議論をするような問題ですか!」 「お母様」四季は母親を見つめる。「どうか、落ち着いて下さい。これは、理性と人の尊厳を試す良い機会かと思われます」 「人の尊厳ですって?」 「そうです。私は子供を産みます」 「いけません! 許しません!」母親がテーブルを叩いた。 「何故ですか?」 「何故って……」 「私に何の影響がありますか?」 「わかっているの? 貴女、出産がどういうものなのか」 「女性ならば、誰でもがしていることです」 「そんな……」母親は言葉に詰まる。「なんてことを……」 「私という人格に、これは関係のないことです。私の躰の問題です」 「そうよ、大切な、貴女の躰じゃないの」 「たかが、躰だけのことです」 「たかがって……、どうして、そんな酷《ひど》いことを」 「酷いこと? お言葉ですが、それは撤回なさって下さい。これは祝福こそ相応《ふさわ》しいものではありませんか?」 「誰だときいているんだ!」横で父親が立ち上がり叫んだ。椅子が後方へ倒れて音を立てる。 「兄さん、ちょっと……」叔父が腰を浮かせる。両手をテーブルにつき、身を乗り出している。「興奮しない方が……」 「お前は黙ってろ!」弟を睨み返し、父親は息を吸って、そこで止める。手を握り締め、微かに震えているようだった。「四季、答えなさい。お前が、それほどまでに正しいと主張するならば、何故、相手を隠す? 大したことがない、躰だけの問題ならば、どうして言えない?」 「お父様、そしてお母様のことが心配だからです」四季は答えた。「どうか、冷静に。これは、私には必要なことだったのです」 「早すぎます!」母親が叫ぶ。 「いいえ」四季は母親を見据える。「早くはありません。私が学位を取ったのも、早すぎましたか?」  父親は再び椅子に腰掛けた。  母親は両手で顔を覆い、泣いている。  沈黙。  四季は叔父を見る。  叔父は四季を一瞥し、無言で首を横に一度ふった。  話すなんて、どうかしている、と言いたいのだろう。 「誰が育てる?」父親が押し殺した声できいた。「そんな、産んでしまって、誰が育てるんだ?」 「私が育てます」四季は答える。 「そんなことができると思うのか?」 「できます」 「父親もいないのに……」 「父親はいます。しかし、子供が育つことに、それは関係がありません。私自身にも、私の人生にも、それは関係がありません」 「そんな理屈が通るか?」 「理屈は常に通ります」 「どれくらいなの? まだ堕ろせるでしょう?」母親が言った。 「お母様、その方が、私の躰に対して危険です」 「四季」父親が彼女を見ないで言った。「誰なのか、言いなさい」  沈黙。  しかし、こうなることは予想していた。  まったく、そのとおりだった。  四季は、テーブルのグラスを見る。  赤い液体が僅かに揺れていた。  自由表面の運動が、周囲の境界にぶつかって、反射する。  繰り返し、そして相殺《そうさい》する。  人の心も、このメカニズムで、波を鎮《しず》める。  同じ波の反射で、それを緩和するのだ。  しかし、  ときには、位相が一致し、共振する。  生かすか、殺すか、の判断は、その僅かなタイミングの差。 「結婚するつもりなのか?」父親がきいた。 「いいえ、それはできません」四季は即答する。 「どうしてだ?」  沈黙。  四季はテーラ展開について一瞬の考察をした。  波形認識は、確か、瀬在丸紅子の専門領域。  彼女は自分の妊娠を、両親にどう伝えただろうか。  彼女は結婚をした。  馬鹿馬鹿しいルールだ。  ルールでしか尊厳が保てないと錯覚している。  ルールが人を愚かにした。  単純化のシンボル。  公式や定理によって数学が堕落するのに似ている。 「私が妊娠したのは、叔父様の精子のためです」四季は言った。      7  その後に巻き起こった沈黙と喧噪の波、その繰り返しの中で、四季は既に外界からの音声を遮断し、ただ映像情報だけを静かに眺めていた。父親はグラスを手に持ち、ワインを叔父の顔にかけた。母親は叔父のシャツを掴み、そこで止まってしまった。 「なんということを」という形に、父親の口は歪《ゆが》んだ。  四季は黙って三人を見ていた。  何故、誰も、この喜ばしい事態に気づかないのか?  どうして祝福しようとしないのか。  非常に理不尽な、そして無意味なものに、彼らは支配されている。  それは亡霊のようなもの。  チャンスを与えよう。  誰が、気づくだろう。  頭脳明晰な人たちよ、  己を拘束している、形もなく、目に見えることもなく、しかも存在さえしない呪縛の鎖を、解きたまえ。  待った。  タイムラグ。  どうして、この世界に定着するためには、待たねばならないのか。  遅すぎる。  スローモーション。  ほとんど止まっているような、その遅さを許容しないかぎり、  ここでは生きられないのか。  叔父は、何も弁明しなかった。  彼が一番正しい。  弁明の必要などないのだから。  彼は、私を受け入れた。この真実を受け入れようとした。  それだけのこと。  大したことではない。  こうして、乗り越えなければならない障害を、いくつもクリアしていくことが、すなわち進歩であり、発展であり、成長ではないのか。  叔父様……、  四季は、新藤清二を見つめる。 「君は、いったい何を考えているんだ?」彼の口が動く。  それは、もうずっと昔に、私が考えたことかしら?  あのホテルで、叔父様がお酒を飲むまえから、こうなることはわかっていた。すべて考えていた。あらゆる可能性を考えていたのよ。 「わからない」彼は顔をしかめ、頭を抱え込んだ。  わかるって、何かしら?  何をわかりたいの?  もう、すべて知っているはず。  どうして、知っていることを、  わかっていることを、  わからないことだと思おうとするの?  それが不思議です。  否定する理由を探しているけれど、  その否定に、いったいどんな意味があるの?  大したことではないのに、何故そんなに抵抗するの?  不思議。  そして、滑稽。 「四季、やめておけ」其志雄の声が聞こえた。 「何をやめろと?」 「君がしようとしていることだよ」 「私がしようとしていることは、私が決めたこと。私は、しようと思ったことを、しなかったことは一度もないわ」 「それは正しいかもしれないけれど、受け入れられない」 「誰に?」 「君以外の全員だ」 「其志雄もそう?」 「僕は……」其志雄はしばらく考えているようだった。「僕は、君を理解している。君の側だ」 「だったら、これが正しいとわかるでしょう?」 「もう少し待てないか?」 「待てません。正しい、正しくない。結局は、その程度のこと」 「一つだけ、教えてくれ」 「何?」 「君は死にたいのか? それとも、生きたいのか?」 「私は、生きます」 「わかった。僕はそれが知りたかっただけだ。もう反対しない」 「ありがとう」  四季は椅子から立ち上がった。  彼女の腕を掴む者がいた。  四季は振り返る。  父親の手だった。  変形した顔が、そこにある。  母親を見る。  彼女の顔も変形していた。 「お話は以上です。失礼させていただきたいのですが」四季は父親に言った。彼女の腕を掴む、その圧力が増した。 「お父様、この手を離していただけませんか」 「どこへ行くつもりだ?」 「皆様が気づかれるための時間を差し上げようと思いました」 「何を言っているんだ」 「言葉をよくお聞き下さい。理解しようという気持ちを、どうかお持ちになって下さい」 「黙れ!」  父親のもう一方の手が素早く動き、四季の顔面に横から当たった。彼女は衝撃を受け、躰は椅子にぶつかった。その椅子を倒し、彼女は床に肩から落ちた。膝と両手に痛みが走る。  少し遅れて、父親に打たれた頬が熱くなった。  彼女は、すぐに立ち上がり、倒れていた椅子を起こす。  三人とも無言で彼女を見つめていた。  父親は何か言おうとしたが、口を動かしただけで声にならなかった。母親も叔父も立ち上がっている。  フィジカルな攻撃を受けたのは、初めての体験だ。  この程度のことか、と彼女は思った。  やはり、躰だけのこと。  大したことではない。  四季は黙って歩き、叔父の近くのキャビネットにあった人形を掴み、それを持って部屋を出た。  呼び止められなかった。  自室に入り、照明もつけず、しばらくベッドに座っていた。人形は彼女を見つめている。人間よりも善良で、しかも冷静だ。四季は、呼吸も脈拍も正常だった。  父の大声が聞こえる。どうしてあんなに興奮しているのだろう。叔父を責めているにちがいない。その行為は、娘を自分のものだと主張している、つまり、四季の人権を明らかに侵害している。また、叔父に対する嫉妬が混じっていて、このこと自体が、彼が定義する罪に属するものだろう。その自己矛盾に、何故気づかない? 少し静かになった。  足音が聞こえ、ドアがノックされる。  返事をしなかった。  しかし、鍵はかけていない。  ドアを開けたのは母親だった。 「四季さん?」母親の表情は逆光線で見えない。「お父様に謝って。お願いだから」 「それが、お母様のご意見?」四季は尋ねる。 「ええ」彼女は頷いた。 「わかりました、今、行きます」  四季は立ち上がり、ナップサックから包装された箱を取り出した。それと人形を持って、彼女は部屋を出る。  ダイニングには誰もいなかった。  通路で母親が待っていた。  応接室へ移ったようだ。  四季はそちらへ行く。  静かだった。  少しは冷静さを取り戻したのだろう。  ソファに、父親と叔父が座っていた。  四季が部屋に入ると、母親が後ろでドアを閉めた。  沈黙。  誰も、口をきかない。  応接室には、まだ細かい荷物が運び込まれていない。家具と空っぽの本棚、それに電気スタンド。テーブルの上にはガラスの灰皿がある。しかしそれも汚れていない。絨毯も新しい。  四季は人形を本棚に飾り、それから、新藤に近づいた。  彼女は手に持っていた箱を彼に手渡す。  新藤は無言でそれを受け取り、四季を見た。  彼の手が包装紙を破り、箱の蓋を開ける。  ナイフが出てきた。  息を飲むような、無声音がもれる。  新藤はナイフを掴み、じっとそれに見入った。  彼は、左千朗を見て、それから美千代を見て、  そして、四季を見た。  彼は立ち上がった。  四季は、新藤が持っているナイフを取り上げようと手を伸ばした。彼の意志が確かめられただけで充分だった。 「私がやります」四季は小声で囁く。  そして、彼から取り上げたナイフを両手に構え、ソファの後ろへ行く。そこに美千代が立っていた。  四季は、母親に接近する。  美千代は逃げなかった。目を見開き、ナイフではなく、四季を見つめていた。五十センチ手前で、四季は一度止まり、相手の意志を確認した。背後から新藤が四季に触れようとした。その力はもう遅い。しかし、彼の接近は温かく、そして嬉しかった。  ナイフは、母親の胸を突いた。  母親は僅かに呻《うめ》き声を上げ、後退し、そして壁に背中をつけてから、膝を折った。  血飛沫《ちしぶき》が四季の躰にかかった。  声が上がる。  父親の喚《わめ》き声《ごえ》。  四季は振り返る。  テーブルの向こうで彼は突っ立っている。  四季が近づくと、彼は後ずさりした。  両手を広げている。  四季は近づく。  彼女の両手を、後ろから新藤が押さえている。  部屋の照明が、一度だけナイフを輝かせる。  赤い血が、何もかも新しいこの部屋に、相応しい。  父親は書棚を背にして止まった。  その彼の躰へ、四季のナイフは突き進んだ。  音もなく、感触もなく、ただ無音の中で、赤い温かい血液が舞った。父親は床に倒れ、鳥のように視線を変えた。  ドアが開く。  そちらを見ると、新藤裕見子が立っていた。 「叔母様、こんばんは」四季は微笑んだ。「でも、少し遅すぎたわ」  父親の最後の痙攣《けいれん》で、書棚から人形が落ちる。  彼の血を吸って、人形は床に付着した。  四季の一部は悲鳴を上げた。  その声に反応するかのように、新藤裕見子が飛び出していく。  誰かを呼びにいったのだろう。  四季の両手は真っ赤になっていた。  新藤清二が、彼女を解放する。 「四季」彼は優しい声で言った。「僕を刺しなさい」 「叔父様」彼女は答える。「このナイフはいかが? お誕生日のプレゼントだったのに、汚してしまいました」 「ああ……」彼は、四季の手の中のそれを見た。 「これがあれば、一人で生きていける?」 「ああ」彼は目を見開き、震えていた。 「すべて私がやって、叔父様は、私を止めようとしたのです。わかりましたか? 私は未成年です。すべての資産は叔父様のものになります。もう後戻りはできないわ」 「四季、僕を殺してくれ」 「私の産む子が大きくなれば、私や、叔父様をきっと殺すでしょう」四季はそう言って、ナイフを床に置いた。「それまでの間、正しく、そして人の誇りを信じて、生きましょう」 「四季……、どうか、僕を」 「大丈夫、叔父様はもう、私に殺されたのよ」 「ああ……」 「幾度も私に殺される夢を見るでしょう」 「お願いだ」 「お約束します。いつか、必ず」 [#改ページ] エピローグ [#ここから5字下げ]  |愛の神《エロース》は、人間のうちにあっても、神々のうちにあっても、偉大な、驚嘆すべき神であります。それは、もとよりあらゆる理由によるのですが、なかんずく、その誕生においてそうなのです。なぜなら、その神が、神々のうちでも一番|齢《よわい》が古いということは、尊敬に値することだからです。これには、次のような、証拠があります。すなわち、|愛の神《エロース》には、両親というものがありませんし、また、いかなる散文家、詩人によっても、語られてはいないのです。 [#ここで字下げ終わり]  エレベータで屋上へ上がると、夜空が大人しく広がっていた。温かい大気が四季を包み込み、また星々からの光を美しく瞬かせた。  ほぼ円形の月が東の空に浮かんでいる。 「綺麗だね」其志雄が言った。 「ええ、とても」四季は答える。 「どう? 経験すべきことを経験した感想は?」 「思っていたとおりの答えになった計算」 「君の場合、何だって思ったとおりになるんだろう?」 「それだけ沢山の予想を立てて、準備をしているだけのこと。未来が予測できるわけではないわ」 「どうして、新藤氏を殺さなかったの?」 「お父様とお母様の遺伝子は、私が引き継いだ。叔父様の遺伝子は、私にはありません」 「では、君の産む子が、新しい君になったら、そのときには、新藤氏を殺すんだね?」 「お話がつまらないわ」 「ごめん」 「こんなに綺麗な夜空は初めて見た。やっぱり、都会では見られない空だわ」 「向こうのペントハウスから、誰かがこちらを見ているよ」 「あんな遠くの点のような光の一つ一つに名前をつける人間が、どうして、自分の子孫のことになると、あんなに獰猛《どうもう》になるのかしら。同じ動物?」 「きっと、それが、生命の宿命なんだと思うな」 「ほら、またそうやって諦めようとしている。宿命? それだって、勝手に思い込んでいる概念の単純化。そんなに神様の家来になりたい?」 「病気なんだからしかたがないよ」 「病気?」 「人間っていう病気にかかっているんだ、みんな」 「ああ、そうね。火の粉が、花火という病気にかかって、夜空に打ち上げられるのと同じ?」 「そうそう」 「また、花火が見たいわ」 「しばらく無理だよ」 「砂浜も歩いてみたい」 「今行けば間に合うかも」 「一人じゃあ、しかたないわ」 「え? 誰と歩くの?」 「うーん、そうね……」  四季は一瞬で四十七通りの発想をした。どれが良いか、わからなかった。北の空で星が動いていた。  それはやがて大きくなり、眩しさを増す。  ヘリコプタが近づいてきた。彼女はそちらへ手を振った。  微笑んで。  その手の血は、既に乾いている。  十四回目の夏だった。 [#ここから5字下げ] 冒頭および作中各章の引用文は『饗宴』(プラトーン著 森進一訳 新潮文庫)によりました。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 底本 講談社 KODANSHA NOVELS  四季《しき》 夏《なつ》  著者 森《もり》 博嗣《ひろし》  二〇〇三年十一月五日  第一刷発行  発行者——野間佐和子  発行所——株式会社講談社 [#地付き]2008年6月1日作成 hj [#改ページ] 置き換え文字 掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26